再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1132:属人化のススメ

diamond.jp

仕事が人をついて回る=俗にいうところの「属人化」はどこの会社でも嫌われる現象。仕事の中身がブラックボックス化してしまい、他の誰かに任せることができなくなる将来を危惧して、多少の負荷には目をつぶって業務を分担したりとか、かなりの時間を費やしてマニュアルを作成したりとか、余計な労力をかけて人に仕事がついて回ることを回避してきた現実がある。

ノウハウをマニュアル化したり、手順をフローチャート化したり、ルールを明文化したり……。多くの企業は、個人に根差した暗黙知を、組織内で流通させやすい形式知に変換して蓄積していく「脱属人化」を実践しています。

一時期、ナレッジマネジメントなる手法が流行った。できる人のやり方をデータベースなどに蓄積してそれをノウハウとして共有し、できない人もそれを真似ることでデキる人のように振る舞うことができるという理想を描いたものだったが、あれってどこに行ったんだ?みたいな状況になっている。

まぁ、そんなことができれば誰でも「できる人」に近いパフォーマンスを発揮できるという話も理解できなくはないが、そもそもそれをできない人にできる人のモノマネをしろと強要することにも無理がある話だ。それができるなら最初からやってるでしょ。それに誰もがモノマネ芸人みたいに器用じゃないから、真似をしているつもりでもそのパフォーマンスにはそれ相応の違いが出てしまい、思わぬズレが生じてしまうなんて話は日常の茶飯事だったりもするんだろう。

これだけ「ハラスメントはよくありません」と言っているのに、度重なる不幸が止まず繰り返されるのも然り。ルール化してもドキュメント化してもそれができない人はある一定数存在する。できない理由を並べ立ててさらなる再発防止策を立てなきゃならないのだが、徒労に終わるのが目に見えているくらいあちらこちらで再発を繰り返しトラブルはなくならない。己をわきまえない自信過剰な行為者は決められたルールを覚えないしマニュアルも読まない。たとえ読んだとしてもオレ流よろしく好き勝手な振る舞いで結局は最悪の事態を招いたりもする。人と同じことすらできないのなら、どこか誰もいない孤島にでも行って自給自足で暮らしてほしいものなのだが、それをオススメすること自体がパワハラだったりするから打つ手なんてどこにも存在しない。

交通事故防止もそうだ。「かもしれない運転」という最終兵器を持ち出す場面が増えざるを得ない状況にある。予測の範疇を超えた横暴かつ乱暴な運転に巻き込まれ被害を受ける状況を今後どう避ければいいのか誰にも解らない。だから自己防衛を持ち出して注意喚起するしかない。その車に80歳を過ぎた老人が乗っているのか免許取り立ての初心者が乗っているのかなんていちいち判別しながら歩行してないし運転してない。すべからく教習所で習うもしくは運転免許センターで一発合格でもしてお国に「自動車を運転してもよろしい」とお墨付きを得た人たちなのだが、人は不確実な生き物だから予想外で突飛な行動を取る時もたまにあったりするもんで、この世の中から交通事故がなくなる日なんて永遠に来ないんじゃないかとも思えて途方に暮れるしかない。ぜひアイサイトには頑張っていただいて交通事故を機械的に物理的になくせる事を期待しよう。

閑話休題

ビジネスには「説明できること」が重要で、情報を共有するだとか、コンセンサスを得るなんてことは、ごく当たり前のようにやってきたし、数値経営全盛の世の中だから、言葉よりもわかりやすい数字を重要視する経営者も多い。KPIを設定するとか何だとか、根拠がありそうでなさそうなよくわからないものを指標としたりするのが大好きで、それよりも上だと喜んでみたり、それよりも下だと躍起になって改善策をひねり出さなきゃならなかったりもして、PとDとCとAをグルグル回すことで満足して実際にはそれほど進歩も進化もしていなかったりもする。結局は「以前のやり方の方が性に合っていたのかも」なんて懐古主義が蔓延したりもするから「昔はよかったなー」なんて縁側で日向ぼっこしながらお茶の一つでも啜りたくもなる。

このお話の中で出てくる「説明できないけれどすごいもの」が存在できる余白がどんどん減って来ているという実感は、たしかにある。言語化できたとしてもそれが伝わらない人が確実に存在して、説明できるのに正しく理解されず実践すらできないなんてこともよくあるから、ますます属人化をなくすなんてできないんじゃないかと思い始めている。

感性の大切さに気付いている企業が増えていることは、「デザイン思考」や「アート思考」への関心や活用が進んでいることからも分かります。しかし、意外に見落とされがちなのが、「受け手」の感性を耕そうという視点です。可能性に満ちた投げ掛けがあっても、それが適切に受け取られない限り、真価を発揮できません。砂利と石だけで構成された枯山水が、そこに深山幽谷や大海原をイメージする鑑賞者がいて初めて、豊かな表現として成立するのと同様です。

そうそう、受け手側の感性を磨かないと、どれだけ立派なルールやマニュアルを作ったとしても、物事はそうそう上手くは行かないってことだ。

属人化を嫌って全てを均そうとする一方で、大衆はいつの日も稀代の天才を求めていたりもする。

一人の天才が現れて世の中が変わるなんてことは過去にいくらでもあった。世の中の常識を覆し、革命を起こし、次の世代の世の中を切り開いてきたヒーローは過去に何人も存在したし、おそらくこれからもひと握りの稀有な存在が我々迷える仔羊を次の世界へと導いてくれるに違いない。

結局、大勢の大衆はどんなに頑張っても平均的に機能することしかできず、一握りの天才が世の中をリードするしかないのだ。首相にしろ大統領にしろ社長にしろ、なってしまったその人にその度量とスキルが備わっているかどうかなんて関係なしに、その呼び名という記号をもってして必ずリーダーシップを求められる立場へと押し上げる。平均化された大衆だけではどうしようもないジレンマに陥るしかないから、ないものねだりで藁にもすがる想いでかりそめのリーダーに進むべき道を決めてほしいからだ。

それなのに、出る杭は打たれ、属人化を嫌い、人が平均的な能力を発揮するように仕向けて、秩序の安寧を保ってきたのは一体なぜなんだろう。そのような状況を打破して飛び出してくるほどのエネルギーを欲しているというのだろうか。それとも、人は誰でも自分がリーダーである姿を一度は夢見て、己がその立場になれる日が来ることを妄想しているのだろうか。なったとしていいことなんかそれほどないだろうに。