再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1126:フェイク

 

フェイク

フェイク

  • TOY'S FACTORY
Amazon

 

店で作った紛い物になったつもりはないが、よく回る歯車になってしまった自覚はある。その歯車は唯一無二のものではなく、なくてはならない存在でもない。誰かが取って変わることなど造作もなく簡単なことであるし、そこに個性などという余計な装飾は必要ない。目立つこともなく、思考することすらも必要ない。歯車の良し悪しを決める唯一の判断基準は「よく回るかどうか」。

好き好んで歯車になったつもりはなかったのだが、いつの間にか社会の中に組み込まれてグルグルグルグル回り続けてきた。そんな自分は、本来なろうと思っていた自分の姿ではなく、まさに紛い物以外の何ものでもないことに、ふと気づく。

本当の自分を曝け出すことなく猫の皮を被って生きている人は相当数存在する、と思う。「本当の自分」っていうのが人様に見せられる代物ならばそんなに隠し続ける必要などないのだろうが、本音を語らずに道化を演じて生きて行かなければならないのが「大人の社会」であるような気がする。本当の自分をフェイクしてまで生きる意味があるのかと問われても、いまここで回答することはできない。なんせボク自身も我慢に我慢を重ねて自分すらも騙して誤魔化して生きてきているから。

あらゆる場面において、極力本音をストレートに語ってきたつもりではある。人には(特に上司からは)「口が悪い」と散々言われてきた。暴言を吐いているつもりはなく、ただ揶揄的な表現を使わずに解りやすい言葉で話してきただけだ。流石にTPOはわきまえているつもりではあるので、外面はそこそこ良いはずで、よく知らない人からの印象はそれほど悪くない方だと思うのだが、気心が知れた身内と呼んでもいい周辺の仲間たちに対して放つ言葉には、過剰な修飾をする必要などないだろうと、気取らずに言葉を選ばずに心で思ったことをそのまま伝えてきたら、そういう暴言野郎みたいな評価になった、というわけだ。

課題解決のためにわざわざ遠回りしてどうするんだ。会話上の読解力に乏しい連中を相手にした際に、歯に衣着せぬ言い方が最も最短経路として伝達されることは確かであり、日本人的な「行間を読む」なんて高度な技術を相手に使わせることすら忍びない。だったら、直球ど真ん中、心に響く言葉そのものをぶつけて何が悪いというのだろう。

だが、それではダメらしい。常識人たる大人はお上品な物の言い方で、なるべく遠回し遠回しに外堀を埋めていかなければいけないようだ。誰からも好かれる態度と、小難しく解りづらい言葉の羅列で、一端の大人を気取って社会を渡り歩くのが世間様の常識になるのだという。

だからボクは、本当の自分のままではいられない。

本音はひた隠し、常に口角をあげて、にこやかかつ穏やかな表情で、とうとうと語りかけるその姿は、ボク本来の姿でもなんでもない。

0か1かのデジタル社会においても、誰かにとって不利な話は「いい」と「ダメ」の選択で語ることは許されない。「うーん、それもいいんだけどねー。なんて言ったらいいのかな、いい線行っているとは思うんだけどさー、ニュアンスがねー、いまひとつというか、だからさー、もう一度考え直してみてくれないかなー」なんて回りくどい言い方が無難ということか。

そんな不確定要素満載のやり方で、人に理解を求めることができるのだろうか。

教えを請うてくる者に対して、中途半端な物の言い方で、その人の成長を促せるものなのだろうか。

どこがダメでどこが間違っているのがズバリ指摘することは、相手の身を削ることになる一方で、否定した者の人格を破壊することにもなるというのだろうか。

ダメなものはダメ、どこがダメなのかをハッキリさせて、それをどうしたらよくなるのか、それをストレートに伝えてはいけないっていうことなのだろうか。

乱雑な表現や粗暴な言葉を使ってはいけないのは現代の常識であり、それを意図的に使おうってことではない。優しい言葉ではあるものの、指摘すべき事項そのものを、相手に伝えることで生じる相手の心の中の衝撃を想像した上で、オブラートに包み隠すことなく的確に伝えることができたのなら、それはきっと素敵なことなのだろう。それをもってして「口が悪い」と言われる筋合いはおそらくないはずだ。

だからボクは今日も仮面を被らざるを得ない。

おためごかしな態度で、相手が何者かもわからないうちから余計な気を使うことで日々疲弊していく。そんなやり方しか、生き延びる術を知らない。

何に対して怒りを感じているのだろうかと思うことはある。面白おかしく生きてはいけないのだろうか。任された仕事を如何に楽しくこなすかを考えずして、何にモチベーションを求めればいいというのだろうか。やり終えた時の達成感を次につなげることはもちろんだが、そこに至るまでの道程が艱難辛苦に満ち満ちているとしたら、誰がその道を進む気になるというのだろうか。日々を楽しく過ごすためにやることが否定されるのだとしたら、それが相手や周囲にとってもいいことだと思ってすることが認められないのだとしたら、綺麗事を並べ立てるだけ並べ立て、真実を上手く誤魔化して、露骨にならないよう極力婉曲に、理解してもらうことなどハナから諦めて、適当に世の中を渡り歩いていくしかないじゃないか。

それは、ただそこにあるだけの紛い物でしかないというのに。