憶測や希望的観測に基づくニュースや報道が増えている?ように感じて仕方がない。この記事の筆者もその点を大いに憂いていらっしゃるようだ。
これは、ズブの素人であったとしても一般大衆に向けて流言飛語を広めることで自らの承認欲求を満たそうとすることが安易に可能となったSNSのような「誰にでも気軽に情報発信できる場所」ができたからなのだろうか。匿名で、かつ誰からのチェックもどこからの検閲も受けずに思いついたままの身勝手な情報を発信できる場が一般にまで広まってしまったからだろうか。だとしたらその功罪は決して小さくはない。
TVのニュースや報道番組であったとしても、そもそも信憑性に乏しいSNSで拡散される情報群から無作為に抽出したソースを鵜呑みにし、無造作に拾い集めたような番組を目にすることも珍しくない。一般人からの投稿動画をそのまま利用することが立派なニュースソースの入手経路になっている今、それも許容範囲に入っているということなのだろう。このご時世ならば、特殊な技術を用いたフェイクな動画を作ることさえ可能であることはもはや常識なのだが、口頭伝聞や空想や妄想の類よりはまだマシだということで、ろくに取材もせずにいっぱしの番組や冊子へと形を変えることが仕事だということだとするならば、いやはや世の中も変わったものだなーと思ったりもする。
本来的な「報道」とは、記者が駆けずり回って取材をして徹底的な事実確認を行い、確証を得たと確信した情報だけを世に知らしめるものではなかったのだろうか。憶測で物事を語ったり、単なる個人的な「こうだったらいいな」という願望をただ垂れ流すようなものではなかったような...。TVだけでなく、新聞や雑誌の類もまた然りである。同じ穴の狢(むじな)であること間違いない。
個人的な話になるが、以前から週刊誌を買って読む習慣など皆無、新聞の購読はとうの昔に止めており、TVのニュース番組でもスポーツや芸能などの娯楽に特化したものしか楽しめなくなっている。誰が語ろうとも、そこから発信される情報の真偽を探る手段を持ち得ないから、だとも言える。例え当事者本人が語る言葉ですら、虚飾に満ちあふれているのではないかと、疑心暗鬼になってしまうのも、わかっていただけるだろうか。何が真実で、何が嘘なのか、それを見極めることが極めて困難な世の中になってきている。どこかしらに何らかのバイアスが掛かっている偏向報道なのではないか?という気がしてならないのだ。その手には決して乗らんぞ!
そもそも「報道」とは何なのか。
現場・現物・現実を的確に捉え、本件は紛れもない真実であることを誇りとし、それを簡単には知り得ることができない一般大衆・小市民たちにもれなく伝える手段ではなかったのか。
報道(ほうどう、英: reporting)とは、ニュース・出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論活動のひとつである。特に報道やそれに伴う世論の形成の研究[1]を「新聞学」と呼称する。
取材を駆使して事実を徹底的に突き詰め、それらに基づいて書いた記事に、嘘偽りや憶測などが入り込む余地などないはず、であるにも関わらず、誤報がある程度の頻度で世に広められ、それを「報道の自由」と称して、己の過ちをなかったことにする行為が許されていいものなのだろうか。
いっぽう、ジャーナリズム(英: journalism)とは、事実の伝達のほか、それについての解説や論評も含む[2]。テレビ放送では報道番組は娯楽番組などと対置されるが、スポーツ中継のように娯楽番組であると同時に事実を伝える報道番組としての側面を含むものもあり、明確な区分は困難である[2]。ただし、ジャーナリズムの定義を無条件に拡大すると本質が見えなくなることから、一般には時事問題に関する報道・解説・批評等の活動を指して用いられる[2]。
簡単に言えば、エンタメ化した報道による作為的な情報操作、批評や解説という名の洗脳行為とも言えるのではないかと、そんな感じで我々も受け止めておいた方がいいのかもしれない。
単なる事実の伝達だけでは面白みにかけるということで、独自の解説や装飾を施し、面白おかしくバラエティ化することが許容されている世の中の方がいけないというのだろうか。だから一部の週刊誌は未だに根強く売れ続け、事実だけを淡々と伝え続ける新聞各紙の売上は右肩下がりという事実が、それを物語っているのかもしれない。
それじゃあ、ここは何?ってことにもなるんだが、ここは副題にもある通り、ごくごく個人的な「日々是反省」の場であり、自らの至らぬ行為を振り返り反省すると同時に、他人の疎かな行為を反面教師とする場である。
どうせ、誰も読んでくれていないのだから、何を書いても問題ないこと間違いない。