再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1125:単身赴任の功罪

4月になった。

単身赴任生活も7年目になった。もう丸6年も家族と離れて暮らしていることになる。

おそらく、日本のサラリーマンで単身赴任をして頑張っている人なんて五万といるはずだから、別に珍しい話でもなんでもない。実際に勤めている会社にも大勢の単身赴任者が居て、この春から単身赴任になる人もいれば、長年のお勤めの果てにようやくこの春から家族の元へ帰ることができる人、勤務先に家族を呼び寄せて引きまとめる人など、いろんな人がいる。

単身赴任の理由も様々で、配偶者が会社勤めをしている関係で離れてくらさなければならないケースもあれば、子どもの学校等の都合で家族から一人離れて働かなければならないケースもある。単独の理由ではなく様々な理由が重なって、家族と離れて暮らすという選択をせざるをえない人もいるだろう。

当然ながらボクにも単身赴任を選択せざるをえない理由があってこのいま現在の境遇にあるわけだが、今回は、この経験について思っていることをここに記録しておくことにする。

単身赴任となった経緯

事の始まりは結婚する以前のことから話さなければならない。

今から20年以上も前まで遡ることになる。いや、別にそこまで戻らずとも語ることはできそうなのだが、備忘録としてここに記録を残すのならば、いっそのこと事の発端というかここに至るまでの経緯をつぶさに書き記しておきたくもなるというもので、そういう理由から話ははるか昔の独身時代まで遡って、事ここに至る経緯みたいなものを紐解いておいた方がいいと思う、うん。

と、気楽に書き始めたがなんだか途轍もなく長い話になりそうなので、とっとと先に進めることにしよう。

2000年当時、30歳を過ぎても独身を謳歌していたボクは、東京は豊島区の要町という土地で一人暮らしをしていた。東京に数多ある主要ターミナル駅の一つである池袋からは営団地下鉄有楽町線で一駅、徒歩で30分弱の2km程度の距離にある。環状6号線(山手通り)と東武百貨店がある池袋西口から伸びる要町通りが交差する要町一丁目交差点の近辺で、営団地下鉄要町駅から徒歩1分圏内の恵まれた場所にある築50年以上の格安古民家に住んでいた。畳のすぐ下にある軒下にはいつのまにか野良猫が住み着いている、そんなのどかな下町情緒あふれる場所だった。

残業や飲み会で遅くなり終電を逃したとしても、山手線沿線からならばタクシーで3,000円もあれば帰られたし、家の周辺にはコンビニ・スーパーマーケット・ファミレス・ファーストフードなどが揃っており食事には困らなかったし、徒歩圏内の池袋駅周辺には映画館・百貨店・大型家電量販店なども多数あり、都内各所に出向くための交通網は発達していて、なに不自由なく生活できる快適な場所だった。この世に生まれ落ちた際に最初に生活した場所でもあったが、その当時の面影はほとんどなく、街の様相は大きく変わっていた。通っていた幼稚園はとうの昔にその姿を消しており、通っていた小学校の校庭のど真ん中にあったはずのプラタナスの大木はいつぞやの台風で倒れてなくなり、アスファルトだった校庭は全天候型テニスコートのような水捌けの良さそうな安全に配慮されたものに変わっていた。

一人暮らしで一軒家に住んでいたのでたまに自炊もしていたような気がするが、平日は仕事で忙しくて帰りも遅く、月水金は池袋駅前の松屋でカレーセットを食し、火木はマルイがあった池袋西口すぐの五差路交差点近くにある古い立ち食い蕎麦屋の君塚で天玉蕎麦ばかり食べていた。休みの日には洗濯と掃除以外にやることもなく、池袋駅周辺をプラプラしたり家でゴロゴロしていた。そういえば、あの近辺に多数存在していた福しんという中華料理チェーン店でラーメンと半チャーハンのセットを休みの日にはよく食べていたような気がする。自転車で新宿や渋谷に出向き、当時流行っていたラーメン屋に出かけたりもしていた。自転車でお台場まで行ったのもあの頃のことだった。

当初はその要町から池袋まで歩き、営団地下鉄丸ノ内線に乗って東京駅まで通勤していた。有楽町線で有楽町まで一本で行くとか、山手線で新宿や渋谷にも行けるような定期券を買う選択肢もあったのだが、休みの日に後楽園の場外馬券場に行く都合があったので丸ノ内線一択だった。その後、転勤で勤務地が東戸塚になったが、当時すでに存在した湘南新宿ラインがあったので困ることはなかった。さらに移転で勤務地が田町になるのだが、池袋から上野方面周りでちょうど反対側にある田町に通ったこともあった。

2002年にいまのカミさんと結婚することになり、会社の社宅に入居することになる。要町の近くに会社の新婚者向け社宅があったのだが老朽化を理由に閉鎖されてしまった関係で、埼玉県北本市に引越しすることになる。埼玉県といっても北の方、熊谷に近い北本市にある社宅は家族4人向けの新婚の二人には広過ぎる3LDKのマンションタイプ。駅から徒歩5分と近いことと、近隣のスーパーマーケットやドラッグストアで売られている生鮮食品が都内に比べれば多少は安いこと以外に大きなメリットはなく、都内への通勤は過酷を極めた。北本よりも北にある鴻巣・熊谷・籠原深谷あたりから都内に通勤するサラリーマンも多く、高崎線の座席に座れることなんて滅多になかった。しかも当時はまだ上野東京ラインが存在していなかったため、高崎線宇都宮線も上野止まり。勤務地の田町に通うためには上野駅で山手線か京浜東北線に乗り換えなければならなかった。しかもそんなサラリーマンはザラにいたので、乗り換えの上野駅外回り山手線/京浜東北線のホームは毎朝人・人・人でごった返していた。高崎線を上野で降りて山手線のホームにたどり着くまでがひと苦労、階段を一段ずつ降りる野党の牛歩戦術のような毎日だった。たまに大船に出向かなきゃならない時は北本から湘南新宿ライン一本で大船まで移動できるのだが、乗車時間が映画一本観られるくらいかかることと、新宿か渋谷を過ぎるまでは車内が大混雑で座席に座れないことがネックだった。

北本の社宅に入居したのはカミさんの通勤事情(さいたま市にある鉄道博物館近くに勤務)があったための選択だったのだが、当時はまだ30代前半と若かったはずのボクでも、日々の悪辣な通勤事情に心を少しずつ削られていく感覚を覚えざるを得ない状況で、そんな悲惨な状況に身を置く期間がそんなに長く続けられるはずもなかった。

カミさんが妊娠を機会に会社を辞めたこともあって北本の社宅に住み続ける理由もなくなったことから、一念発起して引越し...というかマイホーム購入を考えるようになる。30代半ばで住宅ローン最長35年ローンを組んだとしても、定年退職の60歳までに払い終えるかどうか判らない不安定な金銭事情ではあったのだが、「一生ローン地獄」と「一生賃貸生活」を天秤にかけた結果、やっぱり家を持とうという結論になり、分譲マンションを物色することになる。さいたま市内でも大宮よりも北、上尾あたりまでは比較的安価な物件が多い感じではあったのだが、できれば高崎線宇都宮線以外の通勤手段も確保しておきたかったので、自ずと大宮よりも都内に近い場所に目が行くようになる。大宮を含むさいたま市は高級分譲マンションも多く、駅近などは価格設定もかなりお高い感じ。文教地区と呼ばれる県庁所在地の浦和周辺はハイソ(死語?)な方々がお住まいの高級住宅街のようで、住むにはいいけど近隣の方々と上手くやっていける自信がない。浦和よりも都内寄りになると東京から近いというだけで価格が上がりそうだと思ったのだが、川口あたりは荒川が近いことから災害リスクも高く外国人居住者が多いからかお値段は安め。だが、これから生まれてくる子供を育てる環境としてはどうなのだろう?ということもあり、そうなると大宮と浦和に挟まれた今は亡き与野と呼ばれた土地を目指す以外にどうも選択肢はなさそうだと、休日のたびに車で京浜東北線沿いの与野・さいたま新都心埼京線沿いの与野本町・南与野あたりを徘徊することになる。そんな中、たまたま通りかかって見つけた、すでに完成して人が住み始めている分譲マンションの売れ残りの居室にいい物件があったので、即断即決で購入を決意。最寄駅は北与野もしくはさいたま新都心になる。これで通勤事情は一変し劇的に改善されることとなった。バスに乗れば大宮にも行けるので、京浜東北線なら始発に乗ることもできる。ほぼ各駅停車で時間はかかるが田町までは最初から最後まで座席を確保できる。その後の転勤で再び東京駅に通うことになってもただ乗車時間が短くなっただけでなんの問題もなし。その後に没頭することになるTwitterでもPostし放題だし、ブログの原稿だって往復で書き上げることもできた。大宮からは湘南新宿ラインにも乗れるし、その後にできた上野東京ラインにも乗れる。多少の混雑さを苦にしなければ30分弱で東京駅まで通勤できる。これで最難関だった通勤地獄からは解放されることになる。

ただ、これが今の単身赴任という状況を生み出した元凶であることもまた事実だったりもする。

住宅購入は都内に勤務することが前提になった話であり、東京以外の地方に勤務する場合には自ずとこの地を離れなければならない足枷にもなる。勤める会社と担当職能を考えると、全国津々浦々から海外までどこにでも転勤する可能性があることは解っていたので、住宅を購入した時点では「いつか単身赴任することになるかもしれない」と覚悟したつもりだった。「でも、いざとなれば家族丸ごとお引越しするなんてことも考えられるし、でもそうなると子供は親が転勤族だからという理由で転校しなくちゃならなくて友達との悲しい別れを味わっちゃうのかー、でもそれもまた人生、出会いがあるから別れがあるってそれも勉強だよなー、オレも経験してるしなー」みたいな考えが頭を過ったりもするんだが、それすらも甘々だったということを思い知ることになる。それは2017年4月、群馬県への転勤を命じられた際に思い知るのだが、すでにマンション購入から10数年の時を経ていた。カミさんにも子供にもこの土地を離れがたい理由=地元の友人知人というコミュニティーができてしまうには十分な居住期間は「いざ転勤になったらもちろん単身赴任しかないよなー」と覚悟を決めるのにも十分過ぎる時間的余裕でもあった。

こうして今から6年前に単身赴任生活が始まった。

訪れた新天地は無理をすれば自宅から通うことも可能な埼玉県のすぐ隣の群馬県。あれほど嫌だった高崎線も下りになれば座り放題。車通勤でも1時間半もあれば通えなくはない距離にあったが、諸般というか会社上の立場の都合もあって勤務地近隣に住まざるを得なかった。仕方なしにレオパレスでの寂しい一人住まいが始まる。ただ、広義の通勤圏内だと考えれば、週末には自宅に帰ることも十分可能な距離で、今から考えれば「なんてゆるい感じの単身赴任生活なんだ」と思わざるを得ない恵まれた転勤だった。これまでも散々披露してきたが、平日は群馬で仕事をして、休日になると地元の埼玉まで車で戻りサッカー少年団のコーチをするという生活を3年間も続けることができたのは不幸中の幸いだった。さらに、これまた幸いなことに、担当していた世代の選手たちが成長する過程を共に過ごし、彼ら彼女らが小学校を卒業する=サッカー少年団を卒団するタイミングまで一緒に活動することができ、ボク自身も一区切りを付けられたというか何がしかをやり遂げたという達成感みたいなものを得ることもできた。

思い返してみれば、ここまでの単身赴任生活はそれ以降のものとは趣きが異なるどちらかというとまだまだ恵まれた環境下にあったように感じる。毎週末には自宅に戻れることで、家族とも疎遠にならずに済んだし、同居していた頃に比べればその密度は確実に薄くなっていたのかもしれないが、カミさんや子供らとも家族としてのそれなりのコミュニケーションは取れていたのだと思う。

2020年4月、次に訪れたのは名古屋だった。

生まれてこの方、旅行以外で関東地方から出たことのなかった男が50歳を迎えた直後に初めて関東地方以外でひとり生活をすることになる。時を同じくして新型コロナウイルスが全世界中に蔓延し、迂闊に拠点間(自宅埼玉と単身赴任先名古屋)を移動することもままならない状況に陥る。そういったタイミングとかそもそもの距離とから金銭的な事情とかが相まって、自宅に戻る頻度は以前のそれ(毎週末)に比べると変わらざるを得なくなり、回数は自然と激減(2〜3ヶ月に1度程度)していった。移動どころか外出もままならない状況になる時もあったため、強い緊急性がない場合には名古屋のワンルームの部屋に釘付けにならざるを得ない。ただ、仕事でもそうだったように、簡単にリモートで意思疎通を図ることができる情報通信網とその技術の発達のおかげでそれほど切迫した隔絶感はなく、顔を見ながら会話をすることも画面越しであれば簡単にできる状況に多少は心を救われることになる。もちろん、毎週末ごとに自宅に帰ることができていた頃に比べれば家族とは疎遠になりがちにもなるし、物理的な距離の制約もあることからサッカー少年団のコーチとしては活動不能になるのは致し方なかった。休日は自ずとひとりで過ごすことが多くなり、ここに来てようやくというか初めて「単身赴任の悲哀という名の孤独感」をヒシヒシと感じることになった。それを少しでも紛らわし誤魔化すために、たった一人でもできる活動に注力するしかなく、余計に単身赴任生活を拗らせることになるのだ。

そして2022年11月、福島への転勤を命じられて今に至る。

名古屋に比べれば埼玉の自宅への距離は短くなったものの、群馬ほど簡単にホイホイと帰ることのできる距離にはない。しかも単身赴任を多少拗らせた結果として「ひとり上手」になってしまったため、「1人だと寂しい」という感覚に乏しく、1人でいる環境が当たり前という錯覚に陥っている実感がある。カミさんからは「月に1度くらいは帰ってきなさいよ」と言われてはいるものの、この単身赴任期間中に成長した子供たちはほぼ親離れが済んだ世代となっており、以前のように家族全員で過ごす時間も少ない自宅に帰っても大したやることもなく、それならばまだ単身赴任先で身体を動かしたりする活動にせっかくの休日の時間を当てた方がいいんではないか?と、自身の中に自宅に戻る動機がほぼ湧いてこないことにはたと気づく。

いざ「自分の帰るべき場所とはどこか?」と問われれば、所帯を持ってローンと共に居を構えた以上、家族が住む自宅のある埼玉だという認識が芽生えるからこその、単身赴任も厭わない分譲マンション購入であったはずであり、単身赴任で家族と離れて暮らすことは未来永劫「想定の範疇」にあるものと思っていた。もちろんいま現在のこの境遇も自身の中ではあってもおかしくない状況であることには違いなく、別に住宅購入を悔いているわけではない。ただ、想定していた未来とは少しだけ違う部分が目立つようになってきているのも事実。それは自身の想像力の欠如から来るものであり、どこの誰かがそうさせたとか他人に責任をなすりつけるべきものではない。

ここまではホンの序章を記したに過ぎない。

ここまでは、あくまでもここまでの変遷を記憶を呼び起こして振り返りつつ事実を確認してきたに過ぎない。単なる再確認・再認識のための作業だった。

次のセンテンスからは、後悔と自責の念をたっぷりと含む、己自身の引き起こした事実に対する反省の弁を覚悟を持って述べていくこととする。

単身赴任をする元凶となった本当の理由

これまでに書いた過去の実績というか記録とは別に、それよりも遥か遠い昔に、単身赴任をせざるを得ない状況へと自らを追い込んだ原因というか元凶みたいなものがあることに思い至った。「会社が命じたから?」とか他人のせいにするつもりは毛頭ない。端的にまとめると「そんな異動を命じるような会社を選んで入社した自分自身にその全責任がある」ということになる。それは職業観というか就職観のようなものから生じている。この手の話はそこまで遡り事細かに紐解いておかねばならない話なのである。

ここで親の話をする。父親はとある地方の信用金庫というジャンルに分類される規模が小さな金融機関に勤めていた。地元に根付いた金融業であり、もちろん地域のために役立つ立派な職業であると小さな頃から思っていたし、定年退職した今も父親はよい職に就いていたと思っている。思春期を過ぎて再び親と普通の会話ができるようになった頃の話だと思う。何気ない雑談まじりに「なぜ父親はその職業を選んだのか?」という話題になった。本当は物を売る商売=流通業(スーパーや百貨店など)に興味があり、その方面に進むことも考えていたそうなのだが、転勤が多くてひと所に落ち着くことが望めんないだろうこと、つまり家庭を持ち、子を持つことになったら転校させるには忍びないし、一人離れて暮らすことにもなるだろうことを想定しそれを嫌がり、特定圏内での転勤しかないであろう職業=信用金庫の職員を選んだというものだった。その時は大手金融機関に就職できなかったなどの理由もあったのだろうと当時は父親に対して穿った見方をしていたこともあったのだろう。自分としては父親のそういう考え方は理解する一方で、もしチャンスがあるならばもっと大きな仕事ができるフィールドを選択したいなと、そんな風に考えるようになった。

大学に進学し、いざ就職活動をはじめた頃は、まさにバブルの絶頂期にある学生側有利の超売り手市場。大手メーカーの子会社である販売代理店などの中規模の企業を訪れれば三顧の礼をもって歓待され、速攻で内定を頂戴しその後は内定者懇親会などの食事会のオンパレード。東京六大学の下から数えた方が早い程度の大学だとしても、将来の幹部候補生などとおだてられて新宿副都心のホテルに呼び出されて高層階のレストランで食事をさせてもらえる時代だった。一流と呼ばれる一部上場企業の場合はそう簡単には行かないかとも思ったのだが、企業によっては思いの他サクサクと面接が進んだりもして、前述した「チャンス」という女神がまさに今目の前を通り過ぎようとしているような状況にあった。父親が金融系統のサービス業だったこともあり、同業他社は端から選択肢の中にはなく、自らのスキルをもって挑める情報通信産業か物を作ってそれを売る商売の基本のような製造業をメインターゲットとしていろんな企業を回った。そんな中、たどり着いたのがいま現在勤めているこの会社になる。当然ながら所有していた内定の中では一番大きな企業であり自分の実力を考えても申し分ないどころかよく入社できたもんだと思っている。営んでいる事業の分野も範囲も広大で魅力的な会社であるから選択したのだが、父親の言っていた「子どもが生まれたら離れて暮らすことになる」という可能性については完全に失念していた状態だった。

そもそも、自分が結婚するかどうか、家庭をもって子どもを授かるかどうかすら、想像もしていなかった時期の話でもあり、就職して以降の先の長い人生というものを俯瞰的に眺めることすらできていなかったということになる。完全に目先のことしか眼中になかったのだろう。別に、今の会社に就職したことを深く悔やんでいるわけではない。任された仕事はやりがいもあり、それをこなすためにそれなりに努力もしてきたし、その結果それなりの立場にもなれたし、それなりに人様のお役に立てていると自負している。その業績への対価としての報酬にも満足している。もちろんもっと貰えるならそれに越したことはないが、世の中のサラリーマンの平均以上の収入は得られているはずである。家族を養うという意味では必要にして十分な収入を得られているし、勤めている会社のネームバリューによる社会的信頼も得ているし、そのおかげで莫大なローンを組んでマイホームを持つこともできた。そこで暮らす家族はそれなりに幸せで、それなりの学校に通わせることもできている。だから勤めている会社とかその処遇に対する不満ではなく、その愚痴をここでつらつらと書き殴りたいわけではない。いま漠然と感じている不満は、そもそも「この会社に就職する」ことで将来起こりうるであろう自分の未来に対する想像力が十分でなかったことに起因して、この今の現状が成立しているという事実に後悔することになったことをハッキリさせたかっただけである。そんな先の未来まで見通せるわけないだろうことは理解しているが、それにしても自分が自分の父親のような先見の明が全くなかったのかと、自分自身の不甲斐なさを悔やむに悔やみきれずにいる、といったところだと言えば解ってもらえるだろうか。

話は就職当時の選択だけには留まらない。

就職後のキャリア形成に対する考え方も、今から振り返ってみると全然先を見ていなかったことが手にとるように判る。これは「誰のせいではないけれども、結果としてそうなったのだから仕方のないことだ」という類の話になるのだが、結果的に今の現状を後悔しているのなら、その結果を招いた根源に値する話になる。

就職してたまたま東京に勤務することになり、その後に少しだけ神奈川にも勤めてみたけれども再び東京に戻ってきて約25年の会社生活を過ごした。その中で行ってきた仕事の大半は同じ種類の仕事の延長線上にあるもので、東京にある本社勤めにもそろそろ飽きてきたという自覚が芽生えたのが2012~2015年頃。飽きているのは勤務地としての東京に対してではなく、任されているある特定の分野の仕事に対しての心の飽和状態。その当時もやらなければいけない仕事は山積みではあったが、入社から時を経るに連れて方法論やら使える技術の進歩など変化の要素はあったものの、本筋としてやる内容は変わっておらず、マンネリ化していたのだろう。入社したての頃の青二才が修行と経験を積み、一時はその分野における第一人者と呼ばれる地位にまで上り詰めることが出来た。当初の目標であったその立場にたどり着いたのは40代前半。入社当時から思い描いていた目標に到達してみると、その後の目標を見失うことになるのは自然の流れであった。そうなるとひねり出してでも次なる目標を立てねばならず、その時に思いついたのは、どうせ大きな会社に就職したのだから、それまでの経験を活かしつつも新しい分野での仕事を全く知らない土地でもいいからやってみたいという願望だった。つまりは東京以外の拠点を転々とするようなひとり大相撲巡業みたいない発想。それを会社や上司に進言したおかげもあってか、先に述べたような経歴を辿ることになった。自分で言い出したことでもある手前、会社に対して文句を言えるような立場ではないことは重々承知している。よって、このいま現在の境遇は決して会社のせいではなく、自分で希望してそれが叶っているんだから自らが蒔いた種なんじゃねーかということになってくる。で、実際にそうなってみると「なんでこうなった?」という想いが降って湧いて出てくるんだから「誰のせいでもない」というか「お前のせいじゃねーか」という話になるのである。故に己の先見性のなさを反省しているというのが、現時点の心境にも事実にもマッチした一番しっくりくる結論になるのかもしれない。

単身赴任はありかなしか?

ここまで書いておきながら、今更ながらその命題なのか?という感じになるが、当然ながら単身赴任なんてしない方がいいに決まっている。独身を謳歌しているのであれば、どこに行こうが気にならない。風の吹くまま気の向くままに、どんな土地に行こうがたぶん何も気にせずにその土地に溶け込んで面白おかしく生活していける自信はある。実際にこうして地方を転々としてみても、自分ひとりで生活するぶんには何一つ困ることなどない。日本は治安も安定しているし、どこに行っても何不自由なく物が買えるし、Amazon楽天があれば田舎であってもなんでも買えるし届けてもくれる。地元に居たら知らなかったであろう風習や文化に触れることもできるし、テレビでしか見たことのない観光地にだって足を向けられる。だから転勤族になって地方を巡ることには特に大きな不満など抱くはずもない。

でも、単身赴任は駄目だ。

それが決定的となったのはつい最近とある出来事を経験したから。

下の長女がこの春で中学校を卒業し、高校に入学した。この週末には高校の入学式に参加しに一時自宅の埼玉に戻った。カミさんとの関係は相変わらず良好で、大学生の長男はバイトや遊びに忙しいらしくあまり長い時間顔を合わせることはできなかったが、一言二言の会話を交わして近況を聞くことができた。長女は入学式に向かう電車の中や帰りに一緒に昼食を共にしたり、お土産のケーキを一緒に買いに行くなどして普段よりも多く会話することができた。反抗期も終わり父親とも素直に会話してくれるようになったことを改めて確認することができた。単身赴任で離れて生活していても、家族間はそれなりの関係性を維持できており、よそよそしくもなく、かと言ってベッタリでもない、そんな状態は自身が想像していたとおりであり、良くも悪くもなっていない。

だが、心の中に一つの出来事だけがシコリのように残っている。

それは長女が中学校を卒業するに当たって、両親に書いた手紙に如実に表されていた父親であるボクとの関係性について。

彼女が小学校4年生の頃に単身赴任が始まり、中学生の時期はほぼ交流がないまま時間だけが経過したことになる。多感な時期であり、離れて暮らしていたとしても反抗期にあることは手にとるように解っていたし、カミさんからも学校の勉強のことや塾のことや受験のことなどで頻繁に相談を受けていた。金銭面だけでなくそれなりに父親として振る舞い、彼女の将来に向けての責任みたいなものを果たしていたつもりになっていた。卒業式の手紙にも「陰ながら支えてくれたことに対する感謝の気持ち」みたいなことが書かれていた。

だが、最後に「小学生の頃、一緒にゲームセンターでアイカツをやっていた頃が一番楽しかった。はやく家に戻ってきてまた一緒に遊びに行きたい」みたいなことが書かれていて、その一文を読んだ時に自分自身がしてきたことに対して非常に情けない気持ちになってしまったのだ。涙こそこぼすようなことはなかったのだが、失ってはいけないものがあったのだということに気付かされた。

確かに、家族の生活を支えるために会社で仕事をして給料を稼いではいた。だが、生活を共にしていたか?と言われたら、どうなんだろうか。

当然ながら物理的に離れて暮らしていたし、それでも家族として心は繋がっていると信じていたし、単身赴任ごときで家庭が崩壊などするわけはないとたかを括っていたし、実際には家庭は円満とまでは行かなくてもそれなりに維持は出来ている。

だけど、子どもと一緒に過ごせなかったここ数年間は取り返しようがない、かけがえのない時間だったんじゃないか?

家族と離れて暮らしてまで、生活を維持するために遠方で勤める必要があったのだろうか?

そもそもの始まりは、あの日あの時にきちんと自分の人生というものを見つめてこなかった報いなのではないか?

そんなことを考えてしまったので、こんな駄文を書くハメになっている。

子どもたちに対して過干渉になることだけは避けたかったので、中学に入学すると同時に子どもたちのやることに対してはあまり口を出さないようにしてきた。やりたいことに対しては全力で応援してきたし、その邪魔だけはしないようにしてきた。それは一緒に生活しようが離れて暮らそうが変わらない信念みたいなもの。近くで見守るか遠くから祈るように見守るかの違いしかない。でも、そんな子どもたちの日々の機微な生活を見る機会を逃してしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。

だから、単身赴任なんてあまりオススメはしない。

確かに気ままで楽だし、自分の好きなことに使える時間は格段と増えるし、誰かと一緒に生活することで発生する面倒臭さやわずらわしさなんてないし、思ったよりも寂しくなんかない。

だけど、一度逃してしまったチャンスはもう二度と取り戻せない。

自らが招いた結果だけに、このやるせなさは誰にもぶつけようがないのだ。