再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1116:本音と建前

前回の怪奇現象の元となった、例の問題作をだいぶやわらか~いフニャフニャな感じになるよう見直して、いざ公開へ...と思い切って踏み切ることにした。

この6年という長い歳月にわたるブランクを少しでも埋めるべく、リハビリを兼ねて久々の長文にチャレンジするということで、書いてみたものである。

ものになっているかどうかは非常に怪しい。ネタとして面白いものに仕上がるかどうかも不安。面白くしようと思ってふざけた部分が「偉そう」な部分だったりすると、そこをゴッソリと削り取るしかなくなるのだが、果たしてそんな荒療治で無理くり調整したものを白日のもとに晒してしまっていいものかどうか...うーん、迷う。

なんせ「なんでお前、そんな偉そうやねん」と謎のメッセージを残させてしまった例のネタである。別に偉ぶりたくて書いたものではないので、心外この上ないこと甚だしいのだが、とは言えあくせくと汗水垂らして(垂らしてない)、ない知恵絞ってせっかく書いたものである。このまま封印してなかったことにするのももったいない気がする。なので、やはりここは思い切った大手術を経た上で公開することにしようと思う。

ということで、テーマは「本音」と「建前」の使い分けについて。

当初は最近巷を賑わしている時事ネタを例に上げてこのテーマに関する考察を繰り広げるつもりだったのだが、いかんせん時事ネタは旬が大事なもんなんで、たった数日しか経っていなくてもいろんな事実が次々に明らかになって当初繰り広げていた推論が見事に外れてしまい、書いていたことが明らかに間違っていたり単なる曲解だったりということが起きてしまう。それに、後から読み返した際に「ん、これって何の話だっけ?」となることもあるから大抵の場合はニュースソースのリンクを張って置いたりもするんだけど、そのリンク先が未来永劫あるものではなかったりするので、ある日突然削除されて「結局、これって何の話?」となるケースもあるわけで、書いた理由すら判らずじまいで悶々とすることもしばしば。

報道されている内容を客観的に俯瞰してみて、人とは違う視点でそれを面白おかしく解釈しようと試みたとしても、それをこういうところで披露すると「なんでお前、そんなに偉そうやねん」になってしまうこと必至である。まぁ、言い方や書き方の問題もあるのかもしらんけど、偉そうに見えないように丁寧な言葉で、しかもですます調で書くという手がなきにしもあらずだが、そういうのも何だかこそばゆいからなぁ。

なので、元の文章からいろんな時事ネタ部分を削除して、えらく抽象的な話に作り変えるしかないので、出来上がったものが「なんじゃこりゃ?」っていう出来栄えになってしまうことも想定される。もちろんこれを書いているこの段階では単なる見切り発車で、どういう結果になるかはまだわからないから、結果的に「やっぱ封印しよかなー」って気になる可能性がなきにしもあらず。

でもまぁ、お外は雪が積もってて寒いし、だからやることなくて暇を持て余しているのも確かなので、とりあえずごちゃごちゃ言ってないで、話を先に進めてみることにする。

どこまで本音を晒して生きていますか?

...実はこのテーマは非常に難しい。

何の根拠もない論説を公表した途端に即炎上してしまう世の中であるし、客観性のない主観そのものを何の考えもなしに世間に曝け出してしまうことがいかに危険な行為であるかは、ここで偉そうに語らずとも誰しもが知っている世間の常識。誰も彼もがいつも本音を語っているとは思えないし、本音だけで生きる真っ正直で勇気のある人なんてのはめったにいないんじゃないかと思っている。

ごくごくたまーに、誰かからの批判も非難もものともしない神経が図太いんだか死んでるんだかっていう精神的強者がいたりもするが、かなり稀な存在であることは確か。

何らかの発言をした場合、一方では受け入れられ、他方では批判されるという構図が自然発生的に出来上がり、その勢力差によって最終的な評価が下される、というのが世の常ではないだろうか。

「こんなこと言ったら、誰かに批判されるかも?」

「おいおい、そんなこと、めったに言うもんじゃねーぞ。」

「とりあえずこの場は無難な話で落ち着けておこーかな。」

心の奥底に眠る本音ってヤツを発信する前に、そんな配慮というか忖度というか弱気というか己の保身みたいなものが頭の中に浮かぶか浮かばないかで、世間から高評価を得るか糾弾されるのかの大きな分かれ道になっている。

もちろん、炎上商法と言われるような、ある意味で意図的に人々の怒りを爆買いすることを目的とした、あえてというかわざと不用意な発言をしてみせて人々の注意を引き付ける手法があることもこれまた事実である。が、大抵の場合、その安直で何の考えもなしに発してしまった軽口によって予期せぬ非難を一斉集中砲火が如く浴びてしまい、俗世間から爪弾きされて二度と浮上してこない沈没船のような運命を辿ることが目に見えている。その発言内容がたとえ自身の本音であり自分の中でだけでの絶対的な正義であったとしてもだ。それを公表した途端に「はい、それNGです」という評価へと予期せず辿り着いてしまう可能性も全くないとは言えない。

もちろん、世間の大勢と常に同調することが可能なごくごく平均的な思考の持ち主であれば、それほど非難も批判も受けることのない無難な発言をすることも可能なのだろうが、果たしてそんな相当頭のキレる世渡り上手は人がこの世に存在するのかどうかはちと怪しい。

過去には、あまりにも世間の認識からズレた自身の考えを声高々と披露して、赤っ恥をかいたという人も星の数ほどいたはずである。発言者自身の常識が世間の非常識である可能性はゼロではなく、その本音が非常識ではなく単なる無知から来るものであったり、ただ単に普通の感覚からズレてしまった世間知らずという現象の露呈だったりもする。本人が世間にも受け入れられるだろうと想定して自信満々に披露した己の本音が、思いの外にも的外れな誤認だったことで想定外の事態を招いてしまった...なーんてことは日常茶飯事、あちらこちらで勃発しているよくある現象だということだろう。

公私の「公」は「おおやけ」

この「公(おおやけ)」っていうのが、意外と厄介なんじゃないかと感じている。

著名人だったら、記者会見とか所信表明とかインタビューなどといった畏まった場面に限らず、日頃の態度や平時の発言なども世間一般に許容されたり拒絶されたりと忙しいに違いない。いやはや有名税とはよく言ったもので、夢にもそんな立場になってみたいなどとはこれっぽっちも思わない。

それほどの発信力も発言権もなく、メディアによって広く世間に拡散される可能性のない世間一般の人たちの口から出る言葉は、当たり前ではあるがそれほど多くの人の目に晒される可能性は少ない。まかり間違ってあえてSNSとかヤフコメなんかで世間に知らしめるという「承認欲求を満たそう!」なんて邪な欲望が芽生えてさえ来なければ、「公」の立場に立たされることはまずないだろう。せいぜい仲間内で同意されて喜びを得るか、軽い叱責を受ける痛みを味わうくらいで済むはずである。ただそれにも程度ってものがあって、その発言自体があまりにも酷い内容だった場合には、たとえ気心知れた仲間だったとしても、瞬時にドン引きされ、挙句の果てに村八分にあったりして、周囲から友人知人の類が潮が引くように一斉にいなくなる可能性がないとも限らない。そうなると日常的な雑談の中で友人知人に軽く放った一言がすでに「公」に片足を突っ込んでいるのかもしれないと自覚するかしない。意外にもそこ=気兼ねなく本音を口に出すか出さないかの判断が大きな分岐点になるのかもしれないぞ、なんて思ったりもする。

その友人や知人がたとえ「大丈夫、オレは決して誰にも言わへん」という人間だったとしても、何の根拠も確信もない「オレってば口が堅い人間説」をうっかり鵜呑みにしていたら、あっという間に拡散されて知らないうちに最果ての地へと到着してしまい、暗い星空の下で一人ぼっち...なんていう後々に取り返しのつかない事態となる可能性だってあるはずで、やっぱりこの世は罠だらけなんじゃないかと疑ってかかる必要があったりして、もう考え過ぎてしまって何に対しても疑心暗鬼になってしまう自分がいたりする。

どこまでが「公」でどこからが「私」なのかは、人によって認識が異なるだろう。人によってその線引きが違うのであれば、どんな人の発言であれどんな場面での発言であれ、とある意思表明を自分以外の他人にしてしまった時点で、それが勝手にひとり歩きし始める可能性=「公」の発言であると認識される可能性があるということになる。発言が勝手に歩き出すはずはないのだが、伝えた相手によっては、その形のままであったり、意図的に歪曲されたりなんかしちゃったりもした上で、どんどんと四方八方に拡散されてしまう可能性がなきにしもあらず。そういう危険性が少しでもあることを考えると、口に出してしまったその発言自体がすでに「公」の場に曝け出されているということになり、自身の考えや思いを口にすることによって発生するメリット/デメリットを常に考えておかなければならない、ということになるのではなかろうか。

人に対して「これは言ってよし」「これは言ってはだめ」みたいな制約を課せられたことがある過去の経験から類推するに、やはり思っていることをそのまま口に出してしまうことは多少の不利益を被る危険性があるということになるんだろーなぁ。

やっぱり本音を隠して建前でモノを言うのが正解?

ひとたび口から放たれた言葉が途端に「公」という場に晒されるということが紛れもない事実であるとするならば、誰かを信用しづらいこの世の中においては、真っ正直に本音で語るなんて危険な行為は容易にはできないし、それにも増して分かりづらい一捻り効いた冗談なんて誤解が生じる元になるので絶対に言いたくないに決まっている、ということになる。

だから、一端の立派な大人って人たちは、本音を言わずに建前を上手に使いこなして世の中を渡り歩いているんだろう。口から出てくる発言はほぼ建前しかない方がいいに決まっているっていうのが世間的な常識なのかもしれない。どうせ本音を言ったとしても、それが世間に受け入れられるかは一か八かの賭けであり、時と場合とその日の体調と天候なんかにも左右されてしまう可能性があるし、発言当日のめざまし占いで何位だったかなんてのも影響があるのかもしれない。だったら、最初から世間受けする本音とは違う虚飾に塗れた予め準備しておいた優等生的模範解答を台本通りに一言一句間違うことなく噛むこともなく発言することこそが、最善の解ってことになるのだろう。

だったら誰も本音なんて言わないし言いたくもなくなる。「出る杭は打たれる」ではないけれど、突飛な発言や極端な持論展開なんていう人より目立つような危険な行為はせず、目立たず騒がず慎ましやかに生きてたまに息を吐くようにごくごく当たり前のことを言う行き方ってのが利口であって、いついかなる場面においても世間様に迎合するような四角四面でわかりやすくて誰もがわかりきった内容の発言に終始していれば無難に過ごせる、っていう結論になる。

ま、やっぱりそういうことなんだろうね。予想していた通りの帰結。

でも、そういう大人が言うことって遠回しで判りづらいという側面があることにも言及しておきたいが、それはそれでまた別の機会に掘り下げるテーマとしてとっておくことにする。

世の中にある失言という物の言い方ってのは、「その発言内容を認めるか認めないか」という話ではなく、ごくごく私的に「生理的に受け入れるか受け入れられないか」という判断基準の話であって、そういう好き嫌いによって断罪されたり褒めちぎられたりするものなんじゃないかと思う。

もし「○○が好き」「〇〇は嫌い」っていう単純な嗜好の話なのだとすれば、それは個々人の考え方や好みの話であって、他人にどうこう言われる筋合いの話ではないものであり、他人があえて踏み込んだとしてもおいそれとは変えようがない癖の話だと思う。ただ、心の奥底で思っているだけならまだしも、それを口に出して他人に伝えてしまったことがそもそもの間違いのはじまりで、意図せぬ対立構造を発出させてしまったりするんじゃないだろうか。うっかり口にしなければ誰からも批判されなかったし、ここまで非難されることもなかったんじゃなかろうか...って後悔することに繋がらないような行き方をしなければならない。いついかなる場面においても本音を隠して世間一般に受けのいい軽薄とも思える建前で取り繕ってさえいれば、この世知辛い世の中も渡り歩いて行けるのではないかと思えて仕方がないのである。

ということで、うかつに他人に対して口を滑らせて本音を語ったりすると何がどう転ぶかわからないし、世の中はとうの昔から建前ばかりで誰も本音で語ろうとはしていないし、そういう人しかいないこの世の中って何も信用できないってことが、いろいろと書き進めたことで再確認することができた。

だが、今回のケースはただ単に己の人間嫌い・人間不信に拍車がかかり、それを更に増長させてしまったというだけの話であり、そんな結果にしかならねーもんかと落ち込む一方になってしまうので、そろそろこの辺でお開きとさせていただくことにする。