再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1131:It’s gonna be all right

 

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世の中そうそう上手くはいかない。

個人的な「べき論」を並べ立ててみたところで、世間にはさまざまな価値観があるのだから簡単に受け入れてはくれないだろうし、簡単に受け入れられてしまっても、それはそれで張り合いが足りなかったりもする。思い通りの人生を歩めたならそれはとても素敵でいいことなのかもしれないが、予想外のトラブルというちょっとした隠し味が足りないと思ってしまうこともあるかもしれない。

最初から大きな期待をしなければ、幻滅するようなことも諦めてしまうこともないのだろうが、ない袖は振れないと理解しつつも、人は何がしかの希望を見出そうと懸命に道の先を凝視したりなんかしちゃったりもするもので、今のこの恵まれない状況から何とか抜け出そうと足掻いてみるしかない現実を直視することすらせず、遠い輝けるかも知れない未来を見つめてしまうんだろう。

「やめちゃおっかなー」と思うのは大抵は上手くいってない時に出てくる言葉。諦念と逃避の入り混じった負の感情そのもの。「やりたいことの一つもできない」とか「本当はこんなことをやりたいはずじゃなかった」だなんて弱音を吐く人がいるが、そんな時に思うのは、自分のやりたい事が見つかったと思った時点で、実はそれがそうじゃなかったって、間違ってたんじゃないかって手のひらを返すような感じ方が待っているかもしれないってこと。もしくはそれを可能にするスキルが足りない自分自身のことを棚に上げて、自分で選んだはずのその場所であるはずなのに、周囲の無能を言い訳に責任転嫁して不満たらたら文句だけ言ってるんじゃないかってこと。

結局、それをやりたいならそれ相応の努力と忍耐と時間と資金が必要で、それができる時が来るまでジッと待つことも必要だったりもして、そういうもろもろをすべて考慮した上でそれでもそれを「やりたい」と思ったのだとしたら、そんな簡単に諦めたりはしないだろうし、文句なんて言ってる暇などありゃしないんじゃないかなーと思うんだが、現実とのバランスが悪いとか言われても、「まずは己の力量を推し量ってみなさいな」とアドバイスの一つも差し上げたくもなるのだが、そんな他人の感情なんてそれこそ「知らんがな」という一言で簡単に片付けられるほどの自分の人生には不要なものだから、ここで語るほど真剣に考えてみたことすらなかったりもする。

齢50を超えた今ですら自分のやりたい事なんてよくわからんし、最初から自分自身にも世間にもそれほど大きな期待などしていないから、まぁまぁでほどほどの現状には満足はしないまでも大きな不満があるわけでもない。誰にも望まれていないなどと自虐に陥るのは簡単だが、社会って自身の行い一つで必要とされたりされなかったりもするから、不必要のレッテルを貼られないように社会を構成する歯車の一つという役割を一生懸命こなしていさえすりゃあいいし、それくらいは努力するまでもなく身の丈にあった歯車になることを選び間違えないようにしなくちゃならん。「生き甲斐」だとか「自分探し」を口にする輩ほど厄介な存在はなくて、それこそ「知らんがな」の最たるものであるので、他人を巻き込まずに一人で勝手にやっていただけるのならこちらも関わらないで済むのでありがたい。頭の中だけで勝手に繰り広げる妄想なら、世間や他人の迷惑にもならないだろうし、どんどんやっていただいてよろしいんじゃないかと。

他人と歪みあって対立して孤独感を味わう事を恐れたら、自身の主張なんて簡単に口に出せやしない。最近はすぐ「炎上」なんて言われちゃうから、他人と違う考えや思想を披露すること自体がリスクそのもの。それによる効果もしくは悪影響の程度をそれなりに見積もってから発信するかどうかの決断を下す必要があったりもするんだが、例え世間や他人に受け入れない現実が待っていたとしても、そんな孤独さえ恐れなければ好き勝手に発言をできるわけで、実はそれが最強なんじゃないかと思ったりもする。孤立することにより発生するストレスと、言いたい事も言えずに過ごすストレスを天秤にかけて、どちらを取るかなんて究極の選択肢があったとするならば、もちろん誰が聞こうが聞くまいが関係なく言いたい事だけいってストレスフリーに生きていくことを選ぶだろうが、アンチが必ず自然発生的に余計なお世話を焼いてくるので、完全なるストレスフリーなんて実現は不可能なんだろうなーとも思う。こっちがそういう反対意見を言う事に対して聞く耳を持たなきゃいいんだろうけれど、言いたい事があるヤツってのは言いたいだけじゃなくて、自身がどのように評価されているのかを過剰に気にしたりもするから、やめておけばいいのにエゴサーチなんかもしちゃう程に世間体を気にするタイプも多い。その結果なんて最初から解っていたりもするから、その反応をすべて受け止めることのできる鈍感力が必要なんじゃないかと思ったりもして、やっぱり自分にはそのポテンシャルすら度量すらないことにもふと気づかされる。

万人に好かれたいなんてのは贅沢の極みで、好意と悪意は表裏一体、味方と同じ数だけ敵がいると思った方が無難だし、人が人と分かり合える平和な世の中なんて永遠に来ないことなんてわかりきったこと。昨日の敵は今日も敵であることがほぼ確実で、味方になったと思った途端に寝首を欠かれる可能性はゼロにはできない。

だったら、裏切られる可能性の少ない少数の気の合う仲間と面白おかしく過ごすことに注力した方がどれだけ幸せなことか。多少のダウングレードには目を瞑って、それほど多くを望まず、身の丈に合った生き方にジョブチェンジすれば、それなりに面白おかしく生きていけるんじゃないかと。そんなことはわかりきっているにも関わらず、相変わらず高望みして、自分の可能性なんて不確実なものにも期待を寄せてしまったりもして、結局は諦めきれないでいつまでもウジウジするのが人生だ。

ごくたまに、こちらの手練手管な手法なんかをわかっているくせして、それをそのまま受け入れてくれるケースなんかもあったりして、それはそれで妙に気味が悪いというか、わかったふりをしていながら後で大どんでん返しを食らう罠なんじゃないかなんて疑心暗鬼にも陥ったりして、結局はうまく行こうがうまく行かなかろうが、結果に満足する日なんてのは永遠に来ないんじゃないかなんてことが頭をよぎったりもするものだから、やっぱり生きていくって辛いとか大変とかネガティブに捉えてしまうのが通常運転だったりもする。

でもまぁ、そんな感じで50年以上もなんとかやってこれて、思ったほどじゃないにせよ、そこそこの人生を送れているような気もするから、この先もなんとかなるのかもしれないかなーなんて思って今日も頑張ることにしよう。うん、そうしよう。