再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1138:性善説と性悪説と性弱説

人は生まれながらにして良い人であるという「性善説」と、人は生まれながらにして悪しき存在であるとする「性悪説」と、「このどちらが正しいのだろう?」ってこと、一度は禅問答のように考えたことがあるのではなかろうか。

え、そんなに暇じゃない?

いやいや、まず、自分の存在そのものについて、考えてもみなさいな。

「こんな卑しくて醜い存在が、善であるはずなどなかろうもん!」って思ったことはないだろうか。これとは逆に「気高くも高尚な究極の生物たる私のことを、悪と呼ぶとは不届きなっ!」って思っているとか。

うーん、そうだね。まずは己という存在そのものを客観的に見つめ直す必要があるって、そこら辺りから始めてみるといいのかもしんない。うん。

ってな冗談はさておき、というかもう少し真面目に考えてみることにしよう。

自分自身という存在を俯瞰的もしくは客観的にでも顧みた際に、「こんなどうしようもない虫けらが如き存在のボクだから、少しでも人様や世の中のお役に立とうって努力してきたんじゃなかったっけ?」と思うことがしばしば。それが故に自分自身の立ち位置としては、完全に「性悪説」に立っていることが確認できる。そう、自分自身もそれ以外の存在についても「人なんて生まれながらにして他人様に迷惑を掛けながらなんとか生きながらえて行くしかないじゃない」と常々思っている、ということ。

そもそも、人間の存在そのものが他の生物や地球環境から見た時にどう思われるか?と考えてみたとしたら、決して褒められたもんでもないと思っている。大気汚染やらオゾン層拡大やら化石燃料枯渇やら地球温暖化などといった現実世界で起きている各種問題の原因は、全て人間の営みを維持するためにしてきた行為の結果であって、人間以外の動植物たちには迷惑を掛けまくっているというのが実態である、という認識。だから、人間だけがこの世を謳歌することに対しても、いかがなものか?なんてことも思ってみたりもする。まるでシャア・アズナブル、もとい、キャスバル・レム・ダイクンばりのジオニズム信奉者と言っても過言ではない。スペースコロニーがあるのであれば、全ての人類は宇宙に移住でもして地球の自己再生能力に未来を委ねるべし、人類は自然界においては邪魔な存在なんじゃないか?というような「性悪説」がまさにバッチリと当てはまると思っている。これが正直なところである。だが、スペースコロニーに住む人々をG3ガスで抹殺し、残骸となったスペースコローニーそのものやアクシズのような小惑星を地球圏に落としてアースノイドを排除するような行為は「性悪説」では説明もつかないヒトデナシのする悪魔の所業であるという自覚はある。なんのこっちゃ。

一方で、人間だけに焦点を充てて考えてみると、ほとんどの人は「自分以外の誰かをワザと貶めるような愚かな行為を好き好んでやる人などいない」とも思っていたりもする。どこぞのSとMが交錯するクラブ活動にいる女王様は、実は趣味と実益を兼ねているのかもしれないが、相対するパートナーたるお客様が真逆の性癖を有する者であるという前提で成り立つオンデマンドなコミュニケーションを成立させようと努力を惜しまず勤しんでいる人であり、その特殊性癖を有するパートナーが心の底から渇望するサービスを誠意を持ってご提供することをモットーとしているのかもしれないと考えると、人ってそれほど利己的な存在ではないのかもしれないとも思えてくる。誰彼かまわず鞭で叩こうなんて暴力的な人ではないだろうし、知らない人に突然蝋燭のロウを垂らそうなんてことはしないだろうし、ただすれ違っただけの人に振り返りざまに罵声を浴びせかけようなんて突飛な行動に出ようなんて思ってもいないだろう。高慢ちきな自信満々かつ自意識過剰気味のアイツの天狗の鼻をへし折ってやりたいと思ったとしても、ある程度の段階を踏んだ上で、このまま放置し続けると彼にとっても周囲にとってもいい状況にはならないという予測の下に、あえて、あーえーて苦言を呈するという自己犠牲を厭わぬ正義感を伴う親切心で注意してあげるのであって、何も最初から「アイツ、気に食わないからギャフンと言わせてやるっ!」なんてことを意図して行動するジャイアン的思考の持ち主ばかりではないはずだ。なんのこっちゃ。

そもそも、「性悪説」というのも、人の本性というのは利己的欲望の塊であるという前提があり、後天的に習得する善行を行うことで浄化される、つまり「生まれてきてから善い行いを積み重ねることが肝心だよ」という道徳的な考え方だったような気がする。そういう意味では、生まれながらにしてどうだこうだというものではなく、生まれてきてから行う行為や受ける教育や育つ環境が重要なんじゃないかってな話だ。性善説性悪説の後に生まれる「「性無善無悪説」も似たようなもんなのだろう。よく知らんけど。そうやって、昔の偉い人たちは、若い人たちのやる気を奮起させたっつー話なのかな。たぶんそういうことだ。

forbesjapan.comある日、この「性弱説」という話にぶち当たる。

人は生まれながらにして善であろうが悪であろうが、後天的に「善」であろうとする存在であるというのが、これまで述べてきた性善説性悪説の考え方であるのに対して、この「性弱説」は、これから行う行為が「悪」であると知りつつも、どうしてもその悪行を働いてしまうのは、人そのものが「心が弱い存在」であるから、というもの。

具体的に想像してみた。とてもお腹が空いていて、食べるものがない。目の前に美味しそうなご馳走があったらどうするか? きっと、私は「盗むことは悪である」と頭では理解していても、目の前にあるご馳走にありつこうとするだろうと。つまり、私は「性弱」である。

なるほど、人は生きていこうとすると、仕方なく悪事に手を染めることもある、ということなのね。そりゃ仕方ないよねー。

人間も動物的な側面を持っている。生物が持つ生存本能として、生存が脅かされると生き残ることを最優先に行動するのだと。そのような状況では道徳や倫理、法律を超えて、生存に利する利己的な行動をするのだなと思い至った。

人が悪事を働くことにはそれなりの理由があり、その行為をしてしまうことは「善」とか「悪」とかで仕分けることができない、という言い訳が成り立つってことかな。さっきの持論である「最初から他人を貶めようなんて考える人なんていない」という考えと似ているのかなー。

だが、しかし、それだと人が行う悪事を認めてしまうことにもなりかねない。全ての悪事を許容できるほど、人は達観していない。この「性弱説」は少し危うい考え方であるような気がしないでもない。

組織は往々にして「大企業病」と揶揄される問題に苦しんでいる。噛み砕いて言えば、組織における全体最適をメンバーが目指すのではなく、自分が所属する小集団の利益を第一に行動してしまい、部分最適に陥ってしまうということだ。

これは、長い間、組織全体の効率性を妨げると、研究対象としても、さまざまな論考でも話題になっているが、無くなることはない不滅の課題でもある。

この大企業病は、性弱説的に、生存本能的に、考えを巡らせると、ある意味当然の帰結といえる。

こう説かれると「うーん確かに」と思えなくもない。己の存在理由を否定されたくないがために、人は平気で嘘をつくものである。自身とその周囲にいる者たちの生き残りを賭けた一世一代の大博打でも打ちたくなる、というのも頷ける。

結局のところ、組織が成長して肥大化を続けると、軋轢とかズレみたいなものが自然発生的に生じて、自然に瓦解するようにできているのだろうか。少人数の組織であれば比較的容易にコンセンサスを得ることも可能だ。だが、大人数になるとまとまりがつかなくなって、にっちもさっちもいかなくなることがある。4人くらいの飲み会は同じ話題を終始共有しながら最後まで盛り上がることができるが、複数テーブルに跨るような大人数の飲み会になると、テーブルを境に異なる話題となり、途中でシャッフルするかお酌を注ぎに蝶のようにヒラヒラと舞わない限りは全ての話題に参加することができず、腰を落ち着けて飲むことも難しい。どんなたとえ話やねん。

結局、何が言いたいかっていうと、この「性弱説」というものは、人間が生み出した言い訳であるような気がしつつも、言い得て妙で、現代社会に当てはまるケースが多い。だが、この「性弱説」を理由に全ての行為や言動が許されると思ったら大間違い甚だしいってことでもある。

つまり、全体最適を語れるような人物が少ないことが、現状のいろんなものの停滞感に繋がっているのかなーなんて思ったりもしている。