再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

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1120:小学生年代の全国大会は必要か不要か問題

2023年2月18日(日)の午前中の話。

いつも通り、休みだというのに朝寝もせず、お年寄りであるが故に午前7時前にはパッチリと目が覚めて、消化しきれぬほど撮り溜めた半年前の夏休み頃のバラエティー番組の録画を観ながら朝食を摂り、10時から松ちゃんが体調不良で急遽お休みになったワイドナショーを観ていた。

その中でこんなニュースが取り扱われた。

news.yahoo.co.jp

昨年2022年の春頃に、柔道に関しては他に先んじて小学生の全国大会を廃止にしたという話があり、その他のスポーツでも廃止するか否かの調査をした結果が先頃出たというニュースだった。

全国大会をなくす理由が「行き過ぎた勝利至上主義ではいけない」という理屈からの議論のようだが、それよりも何よりも、これを考えた人たちの頭の中のポイントがズレている気がしてならない。リンク先にも珍しくまともで的を射ているコメントが散見されるので、気になる方はそちらもごらんあれ。

ワイドナショーの中では、「競技を楽しむこと、仲間を助けること、対戦相手やその他試合に関わる人たち(審判や大会運営スタッフや保護者など)への感謝やリスペクトが大事である」と、レギュラーではあるがコメンテーターではなくウェイターのような格好をした元サッカー日本代表の人が仰っていた。「子どもたちは何も判らずその競技をやったりやらされたりしているだけだから、大人たちが決めればいい、大人たちが決めてブレないようにしないと違うアプローチが存在するだけで混乱するだけだ」と、フィリピンから強制送還された連続強盗事件の主犯格と以前知り合いだったというだけでバッシングされかけた芸人の人もコメントしていた。

どちらも言っていることはまともで、もちろん正しいと思った。

ここからは持論を展開させていただく。

放送から数週間経っているのだから後出しジャンケンのように見えてしまいがちなのは致し方ないが、ここでは過去の己の実績も交えての意見を述べさせていただくことにする。少しでも信憑性を持っていただけるといいんだが、まぁそれはひとそれぞれだろうからあまり期待しないこととするか。

誰の「勝利至上主義」なのか?

日本一を争うような全国規模の大会でなくても、勝ち負けで序列を決めなければならない競技である限り、都道府県レベルであろうが市区町村レベルであろうが町内大会であろうが、選手である子どもたちは「勝ちたい」と思うに決まっている。「負けてしまったら仕方がない」と思うことはあっても、「負けてもいいや」と思って試合に臨む選手や日々の練習を頑張る選手などいるはずがない。それはごく当たり前の自然な話なので、それを持ってして「勝利至上主義」などと言うはずもなかろう。ここで「勝ちたい」と思っているのは大抵の場合は主役である子どもたちの周囲に蔓延る大人たちのそれを指しているのであろうと想像する。

スポーツであろうがそうでなかろうが、試合をする前提の競技(例えば将棋とか囲碁とかも含まれる)であるならば、指導をする側もしくは見守る側としての大人たちの頭の中から「勝利至上主義」の考え方は、そう簡単にはなくならない。これは約7年間サッカー少年団に携わった者としての実感としてヒシヒシと感じる部分である。

関わる大人たちの考え方次第で勝利至上主義にもなれば育成的観点からの教育や交流の場にもなりうる。どちらに転ぶかは大人である指導者及び保護者の考え方次第。加熱気味になり、少年期のスポーツや数多の競技そのもののあり方を歪めてしまったのは、全て大人たちのせいだと言っても過言ではないだろう。

やっている選手たちは試合がしたい。試合をするならそりゃ勝ちたい。そのためにするのが練習であり、その練習で技を磨いたり体力をつけたり、そういう努力をすることがスポーツや好きな事を極めようとすることの意義だと思う。そこにチャチャを入れて、全国大会という目指すべき目標をなくそうとしているのは大人たちで、そのなくす理由が行き過ぎた大人たちの勝利至上主義だということならば、どこぞのイカれたマッチポンプ話なんだということになる。その「行き過ぎた勝利至上主義」を生み出しているのが周囲の大人たちだということだとすれば、その問題の中に本来の主役であるはずの選手たち=子どもたちが存在していない、というおかしな現象になっていることに誰かが気づいてもよさそうなものなのだが、それを強く主張する人がいないのもこれまた不思議でたまらない。

指導的立場の者の「勝利至上主義」なのか?

子供らに指導している者が「どうせなら勝ちたい」と思ってしまう気持ちもわからないではないが、それは単なる己の保身でしかならないんじゃないか。己の指導者としての威厳を保つため?優れた指導力だと誇示するため?なのかよくわからないが、指導者の中には選手を差し置いて勝利のみを追い求める輩がいることは確かであろう。そのチームが弱かろうが強かろうが、競技をしているのは選手である子供たちであり、試合の中でどう振る舞えばいいか、次の場面でどのように動きどのように対処すればいいのかを考えるのは選手である子どもたちの役目であり、それがあっていようが間違っていようが、迂闊にその場で周囲の大人たちが余計な口を挟まない方がいいに決まっている。試合が終わった後、なぜ上手く行かなかったのか悩む選手にヒントを与えるなどして諭すことはあったとしても、正解かどうかもわからない持論を押し付けることなどあってはならないし、ましてや試合の最中に余計な口出しをすることで「選手たち自らが考える」という大切なプロセスを台無しにしているということに、そろそろ世の指導者たちは気づいた方がいい。技術やルールや戦術を説くことはあっても、ある一定以上の度が過ぎた指導をしてはならないし、まかり間違ってパワーハラスメント的なことなどしてはならない。「見守る」という大事な指導方法が蔑ろにされてしまいがちなのが、このような問題を引き起こす発端になっているような気がする。少年期の指導者に求められるものは、まさに行くべき方向を指し示し導くだけでいいのだ。あとは子供らが自ら勝手に行ってくれるのだから。

とどのつまりが、何はともあれ「プレイヤーズ ファースト」が大切であるということ。大概の競技では、コーチであれ監督であれ試合のピッチの中には入ることはできないし、選手の代わりに試合に出ることもできない。試合が始まるまでの準備段階で、どんな練習をしてきたか、どんな作戦を立ててそれを選手たちに理解させたか、までが監督やコーチができることの大半である。試合中は戦況を見て作戦を変えたり、選手起用を変更したり、臨機応変な対応を求められることはあったとしても、選手が自身で考えて動いたり仲間に声を掛けたりすることを妨げたり邪魔をするようなことはしてはならない。チーム戦術といえば聞こえはいいが、その戦術はチームのものであって、チームというからには指導者だけのものではなく選手のものでもあるわけだ。しかも試合が始まってしまったら、ピッチの中にいる選手たちがチームの中心であり、監督やコーチはほぼ蚊帳の外。だとしたら、チーム戦術は選手自らが考え、変幻自在に変えようが、監督が提唱したものを徹頭徹尾固辞しようが、外野であるピッチ外の大人たちは何も口出しはできないし、それについて文句を言える立場でもない。

練習の時はダメ出しをしたり、指導を徹底したりすればいい。それを試合で活かすも殺すも選手次第。いつもできたことが試合でできないこともある。それがメンタルの問題なのか指導が足りなかったのかは誰にも決められない。「だからあいつは駄目なんだ」と烙印を押すのは簡単だが、難しいかもしれないがグッと我慢して見守り続けてほしいものだ。

行き過ぎているのは親である保護者たち?

「どうせやるなら勝たせてあげたい」と思うのが親心ってヤツかもしれない。だが、それはもちろん単なる親のエゴでしかない。その親が実際に競技をしているわけではないのにも関わらず、親ってヤツはそういう願望を持ってしまいがちなものなのだ。テニスやゴルフなどの個人競技ならいざしらず、野球やミニバスやサッカーなどの団体競技においてであっても、そのチームではなく自分の子供だけを勝たせてあげたいという利己的な考えを持ってしまう親すら存在するのだ。

もちろん、チームやスポーツ少年団にはコーチや監督が存在し、見守るだけの親がしゃしゃり出てくる場面ではないし、いち選手の親がおいそれと口を挟むべきものではない。どうしても試合のそこかしこに口を出したいのであれば、そのチームのスタッフの一員になるなり、審判や指導者の資格を取得してその競技自体に直接関与する努力をしてからにした方がいい。

我が子を溺愛するがばかりに、コーチの指導や監督の選手起用に口を出してくるモンスターペアレントのような親は意外と多い。チームの指導者は選手個々人の適性をみてチーム全体の機能を考えて選手を配置するのだが、それにいちいち苦情のような文句を言ってくる親も中にはいる。

サッカー少年団のコーチをしていた時の話、起用方針を巡って何度か親御さんと対立する場面があった。

とある選手の話。

その選手は元気がいいというか威勢がいいというか、いつもパワフルで足も早くて反射神経が特に良かった。足元のボールの扱いは今ひとつだが、レクリエーションとしてやったドッヂボールを見ていてボールを手でキャッチしたり投げたりする力に優れていると思っていた。練習中も仲間を鼓舞するように常に声を出し、どうすればチームを勝たせることができるかをいつも考えているような選手だった。もちろん練習時には他の選手と同様、フィールド選手としての起用機会を考慮して同じく足を使った練習をさせていたが、試合ではGKとして起用してみた。起用は見事に的中し、最後方から声で守備のコーチングをしたりスーパーセーブするなどして何度かチームに勝利をもたらせていた。本人も自分に向いているGKというポジションが気に入ったようだった。だが、ある日その母親に相談があると呼び出された。「うちの子は走っている時が一番輝いているんです。だから点を取るようなポジションで使ってあげてください」とのことだった。もちろん、それを考慮しないわけではないが、チームとして試合をする上でのポジション決定は少年団の指導者の裁量で行うものであり、一部のご家庭の意見だけを受け入れるわけにはいかない。その場では「GKで固定して使うつもりはないし、彼が他のポジションでも輝くことができるのであればそういう起用もある」と濁した回答をしておいた。それでもその母親は疑心暗鬼であまり納得した様子ではなかった。その後、何度かフィールドの選手としても起用してみたが彼は上手く機能しなかった。GKで試合に出場する機会が多くなり、またその母親に呼び出された。他の保護者からは「コーチが素人だから金を払ってでもプロに頼んだ方がいい」とか「もっとうちの子にあったチームが他にあるはずだ」とか裏で吹聴していると聴いてはいたのだが、それも知らないフリをしていた。母親からは退団して他のチームに行くという話を聞かされた。そもそも自宅近くのチームからここへ移籍してきたのだが、また同じ轍を踏むという選択肢を選んだようだった。その場では直接的な指導者に対する批難はなかったものの、もっと強い他のチームに移籍するとのことだった。それほど遠くないチームへの移籍になるだろうし、当然ながら他チームに移籍したら対戦する機会も出てくるはずなのだが、その後、地域の大会などで彼を観る機会は少なかった。ひょっとした親の意向で大好きなサッカーすら辞めさせられてしまったのかもしれない。決して彼がGKをやりたくなかったわけではないだろうし、彼がサッカーを辞めたいわけでもなかったろうに。

別の選手の話。

その選手はチームのエースだった。うちの少年団にはもったいないくらいの優れた才能の持ち主だった。市の陸上競技大会の50m走でも優勝するくらいの運動神経の持ち主で、彼をFWで起用すれば面白いように点を取ってくれた。親(特に母親)の期待は高く、市内のJリーグ下部組織のセレクションに参加させたいなどの相談も受けていた。もちろん十分にその素質はあると思っていたが、親が行かせたいチームは赤いチームだった。小学生のレベルに限っての話になるが、当時は赤いチームよりもオレンジのチームの方が育成力に優れていたので総監督はそちらを勧めていたのだが、母親はどうしてもJ1でも上位にいる赤いチームに固執している様子だった。5年生のGW連休中に県内近隣の少年団主催試合への招待があった。前日の練習で試合に向けた特別練習をしたのだが、彼の姿はなかった。うちの少年団は(というよりボク個人の考え方も色濃く反映されている感はあるが)、練習に出ない選手は試合で先発起用しない、練習に多く出ている選手を優先して起用するという、努力をした者が報われるような起用方法を徹底している。上手いか下手かが先発選考理由ではないのだ。なので招待試合当日に姿を見せた彼はしばらくベンチに座ることになる。別にその招待試合の全試合に出さないというわけではないので、その後に彼も何試合か出場の機会を得て、それなりの活躍を見せてくれた。その試合から帰ってきて、その彼の父親から申し訳無さそうに今日限りで退団したいとの申し入れがあった。裏で糸を引いているのは母親だとすぐに悟った。「なぜうちの子がエースなのに先発ではないのか。監督やコーチがうちの子を気に入ってないみたいだ、だから退団する」と、そんなことをうちのヤツが言っているとその父親は正直に言った。どうやらうちの監督もコーチであるボクもその母親の機嫌を損ねてしまったらしいのだが、おそらく積もり積もったものもあっての退団の決断だったのだろう。それでもいいのだが、当の本人はそれでいいと言っているのか?という疑問もあり、その彼の方に顔を向けてみると、彼はただただ静かに泣いていた。仲間と袂を分かつのが寂しいのか、親の言いつけだから仕方なく退団を受け入れたのかは、その後に話をさせてもらう機会もなかったのでわからない。ただ、街ですれ違った時は必ず元気よく挨拶をしてくれていたので、彼自身に嫌われたわけではなさそうだった。その後彼は近くの強いチームに移籍し、中学生になったらオレンジ色のプロチームの下部組織に入るほどに成長したことになるが、それも途中で退団して中学校の部活に戻ったらしい。彼は優れた選手だった小学生時代も、飛び級で年上の先輩に混じって試合に出ることは好まず、必ず同じ学年のチームで試合も練習もしたいと行っていたことを思い出した。

ついでの話。

退団したエースと一緒に退団した選手がいた。母親同士が仲が良かったせいなのかどうかわからないが、なぜかその選手も退団して、エースの彼と同じ近くの強いチームへと移籍した。その選手は特別に優れた才能の持ち主ではなかったのだが、練習にも一生懸命になれる努力ができるという才能を持っていた選手だった。強いチームに行って揉まれてより良い練習ができればいいなと思っていたのだが、移籍してまもなくそのチームも退団し、サッカーそのものも辞めてしまったという話を聴いた。何があったのかは知るよしもないが、エースの母親にそそのかされて移籍してせっかくの機会が奪われてしまったのであれば、それも悲しい話だと思っている。うちのチームにそのまま在籍していた方がサッカーを楽しめたのではないか。あの時引き止められなかった後悔だけが今も残っている。

結局、何が言いたいのかというと、子供のやることに親が口を出してもろくなことがなかったという経験談を語りたかっただけだ。もちろんボクが知らないだけで親がちょっかいを出して成功した事例もたくさんあるだろう。だが、そんな実話はボクの周りには一切なかったことだけは確かだ。親が我が子可愛さに過熱気味になり不幸になるケースがあるのだとすると、それも一種の「勝利至上主義」なのかもしれないと思ったので、ここで披露してみた。しかも、これらは団体競技であるサッカーでの話。チームの仲間である同級生と何かを一緒に成し遂げることの喜びを味わうことすらできる競技であるはずなのに、親の勝手な我が子への期待感を満たそうという利己的な欲望によって、本来の主役である子供から学びや喜びの機会を奪い取っているのである。なんとも嘆かわしい話ではないだろうか。

全国大会がダメなのか?

こんな話が日本中のあちらこちらで起こっているのかと思うと、大人たちによる「行き過ぎた勝利至上主義」が問題視されるのもわからんではないと思うが、それと全国大会を中止にすることがイコールで結びつくのかどうかが未だに理解できない。数値化できるものではないので、数学でいうところの証明みたいな話ができないのだが、やはりここでも実際にあった話を体験談として披露しておく。

全国大会に出るには地区予選から県大会を勝ち抜かなければならないので、誰もが経験できるわけではないのだが、幸運にも2回ほど全国大会と呼ばれる試合に関わったことがある。

一つは、以前のブログでも公開していた、長男が6年生の時に出た大会の話。

hirosano-bonno.blogspot.com

 

1チームあたり1万円(当時)を支払って申し込めば誰でも出られる全国大会に参加した時の話を数回に渡って記録したものだ。

自ら書いたブログだけでは証明にならないので、当時の大会記録のリンクも辿ってみた。

www.kusa1987.jp

結果は256チーム中の115位、なのでとても自慢できるような成績ではない。

だが、当時6年生だった長男とそのチームメイトは、以前から率先して早朝自主練するなどの努力もしていたが、全国大会を経験した後に目の色が変わったように更にのめり込むようになった。地域のトレセンに選抜され、上手い選手たちと一緒に試合に出る経験などもあって、中学生になったら部活ではなくクラブチームに入り、高校もサッカーで選ぶことになった。結局、中学でも高校でも全国には全然届かなかった(県大会32位が最高だったか?)が、あの小学6年生の全国大会の経験があったからそこまでサッカーにのめり込んだとも言える。

2つ目は、2020年3月まで指導していた子どもたちが全国大会を経験した話になる。

prtimes.jp

ほとんどのチームが「◯◯大会優勝」とトーナメントを勝ち上がって出場を決めている中で、うちのチームだけ「関東大会B 代表」となっている。

当時、週末のたびの暴風雨で予選大会がことごとく中止、試合日程確保が困難となり、最終的に抽選で代表権を勝ち取ったという幸運以外の何ものでもない流れで、2019年の年末に大阪まで遠征に行くハメになった。結果はAグループ5チーム中5位の0勝3敗1分けという当然の成績ではあったのだが、やはりこの日を境に選手たちの目の色が変わり、年明けの卒団大会や卒団間際の招待試合では選手たちが目覚ましい活躍を魅せてくれたことを記憶している。50歳の誕生日だから勝利をプレゼントして欲しいと選手たちに言ったら、ものの見事に期待に応えてくれたことを今でも覚えている。

しかも、その後、コロナ禍で練習もままならない中学生時代にも、その多くの選手達が大きく成長を遂げてくれている。

saitama-soccer.jp

与野東中には周辺の3つの小学校(上落合小、下落合小、与野八幡小)から生徒が集まる中学校で、小学生年代ではうちは他の小学校傘下にある少年団にはほとんど勝てたためしがない弱いチームだった。

だが、中学3年生になった与野東中サッカー部のレギュラーのほとんどが教え子たちばかりとなった。中でも「強力3トップ」と言われている背番号9番・10番・11番や「サッカーIQが高い」と書かれている背番号8番、サイド突破する背番号6番、守備の要である背番号5番や背番号3番は、全員小学生の時から期待していた教え子たちだった。写真がたくさん掲載されており、その1枚1枚を確認したが、成長した彼らをこんな形で観ることができるとは思ってもいなかった。単身赴任中で遠く名古屋の地でこのニュースを観た時、それまで味わったことのない喜びで満たされた。自分のしてきたことがこういう形で自他ともに認められる機会を得ようとは夢にも思っていなかった。結局この後敗退して県大会優勝までは行かなかったらしいのだが、それでもここまで大きく成長してくれた姿を観るとコーチ冥利に尽きる。

コロナ禍でできなかった謝恩会の代わりとして、つい最近、2月末に保護者が飲み会に誘ってくれた。たまたま免許の更新で地元埼玉に帰るつもりだったので二つ返事で参加させてもらった。公立高校の試験も終わり保護者の方々も重い肩の荷が降りたばかりで、この空白の3年間のそれぞれの活躍を粒さに教えてもらった。できれば大きく成長した選手たちとも会って話をしたかったのだが、それが叶わなかったことだけが残念だ。もう少し先の楽しみにとっておくことにする。

結局は自慢話だったのか?

それは違う。言いたかったのは「小学生年代の全国大会は目指す目標としても必要だし、出れば出たで大きな成長の糧となる」ということ。

全国大会を経験することで一皮もふた皮もむけることもあるのだという現実を二度も経験した者からすれば、小学生の全国大会不要論なんてトンデモない勘違いだとしか思えない。大人たちの行き過ぎたエゴを止めるための不要論であったとしても、子どもたちの成長の機会を奪い去るなんてのは言語道断ってな話なのである。

サッカー経験のない運動音痴のやるコーチングでも、選手たちの育てようはあるということだ。ゴールデンエイジ年代の子どもたちに対する指導など、ものの本を読めば誰でもできるということの証明でもある。偉ぶらず奢ることなく、子どもたちの成長だけを願って、子どもたちがサッカーを好きでいられるよう、サッカーをもっと好きになってもらえるようにと、ただそれだけを叶えるために何をしたらいいかを考えてやっていたら、こんな素晴らしい結果がついてきたというだけの話。優れた指導者でもなんでもない。子どもたちの素質があっただけの話で、その成長を邪魔することなく活性化させたってだけの話。嫌らしい大人のエゴさえ出さなければ誰にでもできる。だが普通の大人にはそれが難しいのかもしれない。

言いたかったのは、大人たちの水掛け論に子どもたちを巻き込んでくれるな、大人たちの勝手な論理で子どもたちのやりたいことの妨げになってくれるな、ということだけ。

親の押し付けではなく、子どもたちは自分がやりたいと思ったスポーツに取り組んだ方がいい。別にスポーツでなくてもよい。親がやらせたいと思うことを子どもに押し付けないでほしい。子どもたちには自分の選んだその競技を好きになってもらいたいから、大人たちはなるべくいつも楽しめる場面を作り出し、「あぁ今日は楽しかったなー」と子供たちが喜び、次もまたその競技をやろうと思わせて、継続して取り組めるを環境を作って欲しい。子供たちがまるで遊んでいるかのような中で楽しみながら基礎的なスキルを身につけられるようにすればなお良い。失敗の中から何かを学び取る場面を多数作って、後の自主性を育んでおきたい。

子どもたちにちょっとしたヒントを与えてあげると、自分で考えてあれよあれよという間に自分の抱える課題を克服するようになる。もっと上手くなりたいから、今度は何をしたら上手くなれるか必ず大人に聞いてくる。貪欲な子供たちは、そうやって自らの力で努力で知恵でスキルを身につけようとする。大人たちはそれにちょっとしたヒントを与えてあげるだけでいいのだ。正解など教える必要はないし、大人の思う正解が必ずしもその子にとっての正解であるとは限らないということも大人は知っておくべきだ。

そこにはレクリエーション的な「試合」という要素も必要となり、「勝って嬉しい」もしくは「負けて悔しい」と思える場面も作りたい。成長すればやがて「練習ばかりじゃつまらない」「身につけたスキルを活かしたい」と子どもたちが勝手に思うようになってくる。そこには「行き過ぎた勝利至上主義」などは存在しておらず、単純にその競技を楽しみたいという純粋な欲望だけが存在している。大人たちは、その子どもたちの渇望に応えてやるだけで、また更に大きく成長してくれるだろうことを願えば良いだけなのだ。

だから、これ以上余計なことはするな。

大人が子どもたちの邪魔をするな。