再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1124:「信じる」ということ

何年か前、女優の芦田愛菜さんが16歳の時に、出演した映画の宣伝だかインタビューの際に言い放った名言がある。「人を信じるということ」というテーマについての自説を話したのだが、とても印象深い内容で、今でも心に残っている。

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その発言内容を引用させていただくことにする。

「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」

この女優さんは小さい子役の頃から大勢の大人がいる芸能界で活躍していた。きっとちやほやもされてきただろうし、ちょっと勘違いしてもおかしくはない境遇にあるはずなのに、この達観した考えをわずか16歳で堂々と大勢の人の前で説くなんて、まっすぐに育てられたんだろうなー、噂に違わず頭のできもいいんだなー、親御さんが立派なんだろーなーなんて思ったりした。

この話をニュースで観た時に「人を信じる」ということについて深く考えてこなかった我が半生を反省してみたりしたのだが、自分なりの「人を信じる」ということについて少しばかり考えてみると、16歳の3倍以上も長く生きているおじさんはすでに「人を信じる」ということに対して人一倍臆病になっており、素直に他人を信じることさえ出来なくなっていることに気づかされる。彼女のアレは若さゆえの悟りなのだろうか。無駄に歳を重ねてくるとおいそれと他人を信じることなんて出来なくなるものなのだろうか...なーんて思ったもんだから、今回は改めて「信じる」ということについて深く考えてみることにする。50をとうに過ぎたおっさんだから青臭いことは言いたくない。本音で語ることにしよう。

信用と信頼

「人を信じる」と同義の言葉で「信用する」とか「信頼する」という言い方もある。

だが、「信用」と「信頼」は似て非なるものだということに気づいた。

辞書を引く機会もすっかりめっきり減ってしまっているが、ひとまずネット検索ででもそれぞれの言葉の定義を確認しておきたい。

「信用」

人の言動や物事を間違いないとして、受け入れること。

「信頼」

ある人や物を高く評価して、すべて任せられるという気持ちを抱くこと。

類義の語に信用があるが、信用はうそや偽りがなく確かだと信じて疑わない意を洗わす。それに対して信頼は対象を高く評価し、任せられるという気持ちを抱く意を表す。

信用が「受け入れる」という内向きな方向性を持つ心の動きであることに対して、信頼は「すべてを任せられる」=相対する他人への期待を込めた外向きに放たれる心の動きである、という違いがあると理解できる。

勝手に心の中で思ってればいいじゃんかよーっていう独りよがりで他者に伝える必要性があまりない行為が「信用」で、より相手への依存度が高く相手を勝手ながらにも自分の方に引き寄せて巻き込んでしまおうという意図が見え隠れするのが「信頼」っていう風に捉えるのは少し強引すぎて意地が悪いだろうか。

「信用してたのに!」と言われると「あぁ、なんだかすまん」という申し訳ない気持ちになるが、「信頼してたのに!」と言われると「そんなん知らんがな」って感じになるような...気がしないでもない。

人との会話の中で「私はあなたを◯◯しています」の◯◯に「信用」が入る回数は恐れ多くて使う回数は少ないけれど、◯◯に「信頼」が入る回数は比較的カジュアルに使う回数が多いんじゃないか。言われた方の受け取り方として「信用」の方がより深刻で、「信頼」の方が軽々しい感じがするんだが、そういう違いがあるってことはないだろうか。

「〇〇ならねーなー」は信用の方で、比較的簡単には他人を「信用する」ことが憚られる印象があり、そういう想いに至りにくい感じがして、「信用する」ということは最終到達点へと来てしまったかのようなニュアンス感がある。「全幅の◯◯を寄せる」のは信頼の方で、全幅であってもなくても比較的ほいほいと寄せてしまいそうで、だから裏切られることも多少は織り込み済みで、油断も隙きもアリまくっている感じがするような...。

って、いろいろ偏りすぎている感が否めなくもないが、「信用する」ことと「信頼する」ことには、そんなニュアンスの違いがあるってことを言いたいだけで、これが感覚的に合っているに違いないと断言できるほどの自信は微塵もないのだが、言いたいことはなんとなーく解っていただけるだろうか。

まぁ各々勝手に解釈すればいい話なので、ここではそういう微妙ではあるが意外とハッキリとした違いがあるという前提で話を先に進めることにする。

きっと、芦田愛菜さんの「信じる」は「信用」の方なんだろーな。ピュアだろうからな。だからおじさんには少しばかり眩しすぎたんだ。

ということで、「信じる」ということは無防備ながらもただ一方的にただひたすら勝手に「信用する」ことだと定義づけて話を先に進めよう。

自分以外の誰かを「信じる」ということ

『自分以外の誰かに気を許して「信用する」なんてことがあるだろうか?』と考えてみる。

きっと「信頼する」ことはあるんだろうなぁ、とは思う。部下や上司や友達や家族を高く評価して、何かを任せること=「信頼する」ことは大概のケースで比較的簡単に発生する、というかそんなことはしょっちゅう行っているはずだ。そうでないと何もかも自分一人でこなさないといけなくなる。己の力量にも当たり前だが限界ってのがあって、それを超えた部分については自分以外の他人を頼らざるをえない。従って、自分一人の力では成し遂げられない何かを実現するためにも、この世の中を生きていくためには自分以外の誰かの力を借りる=「信頼する」ことは誰にとっても必須の行為であるとさえ言える。一旦は任せてみたものの相手が自分の期待に応えてくれなかった場合であったとしても、それ以外の手段でリカバリーできるであろうことも想定しているから、懲りもせずに容易く相手を「信頼する」という行為を意外と繰り返し行っている気がする。

それとは違う『全面的に誰かを「信用する」ことが果たしてできるだろうか?』ということについても考えてみる。

おいそれと他人を「信用する」のは少しばかり怖い気がする。他人の言うことやすることを「間違いない」と受け入れるのには勇気がいる。盲目的にその他人を「信用する」ことができれば課された運命を切り開くことも容易いのだろうが、そこまで心を許せる他人なんてこの世の中に存在するのだろうかとも思う。部下や上司を「信頼する」ことはあっても、「信用する」ところまで相手を深く知り得る機会も多くはないし、知ることができないのであれば相手を「信用する」レベルまでに思いを高めることが困難なように思える。

気心が知れた間柄の人たち(例えば家族とか親しい友人など)であったとしても、何の疑いもなしに全面的に「信用する」ところまで相手を受け入れるようなことがあるだろうか。いや、こちらの思うところ=期待に応えようが応えまいが、どちらのケースに転んだとしても許容する範囲内に存在する人たちとしての認識が勝り、それが果たして「信用する」ことになるかというと、ちょっと違うような気がする。そうそうこちらの期待通りになんかならないだろうし、期待通りのことをしてくれるとも限らんだろうし、期待していることとは異なる想定外な動きをしてくれちゃうことも少なくないだろうから、どうなろうが許せる前提で存在しているだけであって、それが「信用する」というのとはやはり違うと思う。もちろん、ほんの少しばかりであったとしても期待を寄せようとしている時点で「信頼する」ことにはなっているのだろうけど、それは「信用する」という高次の概念にまでは至っていないと思わざるをえない。

本当に、誰かを「信用する」なんてことが、いつか訪れる日が来るのだろうか?

誰よりも知っているはずの自分を「信じる」ということ

他人に対しておいそれとは気を許すことなどできないとしてもだ、自分自身だけは信じてやまないという人は存在するはずだ。身勝手というのか自尊心が高いと表現するのかは知らないが、自分という存在だけを「信用する」ことに腐心する厄介な存在がいることは確かである。大抵の人は自分自身だけは信じられる、そのように確信してはいないだろうか。自分が自分に問うて、自分で考え自分で導き出した答えは信じるに決まっているし、それを信じないで他の何を信じるというのか?と思っている人、それは至極まっとうな考えの持ち主だと思う。

こんなことを言う(書く)んだから、ボク自身はボクという存在を「信用する」ことに多少の迷いを感じている、という方向に話を向けることになる。いや、わざとそういう方向に話を持っていこうとしている、ということだ。

つまり、「なんでみなさん、そんなに自分自身に自信を持てているんですかね?」っていう疑問があるということになる。

「自分が自分を好きか?嫌いか?」という話ではない。

「こんなヤツ(自分)、信じて大丈夫ですかね?」って誰かに確認したくなる時ってないか、という話だ。

幼き頃から描いた夢を実現するために、それなりの課題を自分自身に与え、それなりの努力をしてきたつもりではあるのだが、そうなっていないという現実がいまここにある。かつて自分自身で嵌めた枷を取り払うためにしてきたであろう努力が「本当に全身全霊で行われたものだったか?」と問われれば、「あぁ、あの時には少しばかりの甘えが生じていたに違いない」と思い当たる節があったりもする。なぜ自分のためにすべき努力を怠ったのかと言えば、「そんなに苦労してまで叶えるべきものだったのかね、その夢ってやつは」と斜に構えてニヒルを気取りたくなったりもする。「あの時ああしていればよかった」「こうしていればよかった」とか「あの時なんであっちを選ばずにこっちを選んでしまったんだろうか」っていう後悔とは常に付き合いながら生きてきているのだが、一方では「だってしょうがないじゃないか、あの時はそれがベストだと信じて疑わなかったんだし、今更取り返しようがないのに何言ってんだよ」と開き直りたくもなったりする。己の不幸(というほどのものではないにせよ)を他人のせいにできれば苦労はしないのだろうが、よくよく考えてみると「あれれ、自分で歩む道を間違ったんじゃねーか」とか「わざと道を踏み外してみせたんじゃなかったっけ?」と思い出されることもあったりもして、そうなってくるとやっぱりこの現状はもちろん他人のせいなんかではなくて、自分自身の取捨選択の結果でしかないと思い知らされたりもする。自業自得といえばそうだし、自分で自分の首を絞めてきたといえばそういうことになる。

そんな仕打ちをかましてきた自分自身ってヤツを本当に「信用する」なんてことができますかねー?という話である。

もっと些末で小さい規模の例え話をしてみよう。

自分なりの予定を立てたとして、その通りに遂行してますか?って言われると、自分でやりたいと思って立てた予定にも関わらず、当日の体調だとか気分だったり天気だったり気温や湿度なんかを言い訳にして予定をこなさないなんてことは日常茶飯事で、まぁ誰に迷惑をかる話でもなかったりするから「はいはい、そんな予定はやっぱりなしで」ってその日その時の心の赴くまま気の向くままに勝手な行動を取り続けていたりはしませんかねーっていう話。

自分で決めたことすら守れない状況にあったのかというと、決してそんなことはなくて、それを守らないと誰かが困るとか生き死にに関わるなんて大事でもなかったりするもんだから、だから守れなかったんですよーって話だったりもするんだけど、それにしてもそんな簡単に覆しちゃいますかねーっていう話。

自分自身でやると決めたことであるにも関わらず、それすら守れないってんだから、一体どこの誰が自分を「信用する」ことができますかねーって、こいつって「信用する」に値する存在なんですかねーって話。

「その瞬間の自分の心に素直に従ったまで」と言えばそれなりの理屈になるんだろうと思っている自分すら許せなくて、そんなご都合主義がまかり通るのはフィクションの世界の話だけで、現実の世界はそんなに甘いもんじゃねーんだぞと凄みたくもなってくるっていう話。

それなりの覚悟をもってして語ることではないにしても、自分自身で決めたことをいとも簡単に翻して気分次第でやることなすことコロコロと変えて生きるって、「自由」といえば聞こえはいいかもしれないけれど、「身勝手」と言われれば「そうかもねー」って思わざるをえないんじゃないかっていう話。

「そんな自分でいいんですか?」と言われるとちょっと違うような気がするし、「そんな自分を許せますか?」と言われると許してやってもいいような気がしないでもないが、そんな自分は「信用する」ことができないよなーなんて思ったりもするっていう話。

という意味で(どういう意味?)、この自分自身、己という名のコイツは非常に厄介な存在であって、迂闊に「信用する」なんてことはできない最たる存在だと思ってしまう。

自分のことなんだから、自分のことくらい自分で制御しろよと思うのだが、そんな雁字搦めで生きてて楽しいかなーなんてことも思ったりもするわけで、他人の心が読めないのは当たり前だが、それとは違う次元で自分自身がこの先何をどう考えて生きていこうとしているんだかよく解らなかったりもするし、それなりのことを想像してみても決してその通りにはならないんだろーなーとも思っている。

齢50を過ぎていても、この先「こうなりたい」とか「ああなりたい」という願望はあるものの、そうなるためにはアレとコレとソレを頑張らなくてはならないとなると「やっぱ面倒くさいし、いいかー」ってなりそうだし、数年後先に「頑張ってやってましたか?」と自分自身に問うた時に「やってませんでしたー」ってなって「それじゃあ希望通りの自分になれるわけないじゃん」って自分に怒られそうだし、それじゃあそうならないために今からでも遅くはないので多少の努力みたいなこともしてみますか?と思い直そうとしても「どうせやるだけ無駄無駄ー」って、その時に刹那的にやりたいと思ったことの方に流されて、だから現在もこんな自分なんだろうなーって理解はするものの、また別のどこかでは「どうしてそうなるかなー」って疑問に思っている自分もいそうで、そんな堂々巡りがこれからも延々と繰り返されるのかと思うと本当に嫌になってきてしまうので、ならばいっその事こんな自分なんて「信用する」ことを止めてしまえばいいんだ!という結論に至る、という話である。

人によっては、いま現在の自分を肯定的に捉えて自画自賛すること止まない人も大勢いると思うが、それはそれで健康的であり、無自覚だったとしたらなおのこと幸せであって大変よろしいと上からモノでも言いたくなる心境になる。自分自身を認めてあげられる自信、つけられたらつけておいた方がいいに決まっている。他人から見たら「なんじゃそりゃ?」って思うような自信であったとしても、そんな他人の言う事には意を介さず聞く耳持たなきゃいいんだから、最後の最後には自分で自分を守ってやることができる。だから幸せなのである。

自分自身を認められないってのはある意味不幸でもあり健全的でもある。いま現在の自分の立ち位置が思い描いたものと違うとして、いまの自分があるのはすべて身から出た錆であると自覚していることが正しいとは言わないが、それを他人のせいにしないだけまだマシという意味での健全性のことを言っている。己という存在を自覚しているかどうかっていう話にもなるのだが、はなから他人を信用もしていないし期待もしていない人間からすると、己の境遇の原因は自分以外の何かのせいにすることが少なくて、だから他人も信用ならんけど「やっぱり自分自身が一番信用ならねーな」っていう結論に至るという話になる。

最後に

これって一般の方々にも理解してもらえる話なのだろうか。

自分に自信がないのではなく、自分が信用ならないって話なので、何か嫌なことがあって自暴自棄になっているとか、そういうタイミングにあるワケではないことだけは理解していただきたい。

突き詰めて「信じる」ということを考えてみたら、自分自身の考えとしてはこういう結論に至ったという話であって、誰かに共鳴して欲しいとかそんな要望は一切ない。

いつもの要領で、思いつくままにバーっと書いてみて、それを最初から読み返して推敲してみて、誤字脱字やら表現方法などを多少は修正してみたものの、考えていたことの本筋にブレはないみたいなので、このままのこの形で終わることにする。

つまるところ、ボクは他人も自分も誰に対しても「信頼する」ことはあっても「信用する」ことはなく、そんな精神構造の持ち主であるということだ。そんな状態でよく正気が保てているなーと他人事のような感想も出てきたりするのだが、これが事実なのだから受け入れるしか手がない。やはり最初からあまり多くのことを「期待する」ことすらしてこなかったという生い立ちにもよるのだと思う。神の存在を信じるか信じないかはさておき、自分や周囲の人たちの思念によって何かに導かれるなんてことは信用していないし期待もしていない。神が存在するとして、何らかの拍子にその意思が発揮されたとしても、そんなのは単なる気紛れの一つだろうからいちいち気にしたって仕方がないし、そもそも人智を超越した存在なんてものほど信用ならんものなどないし、だったら、いまこの時点でやりたいことやるべきと思っていることをやればいいのであって、それに他人を道連れにする勇気も資格もないので、今ここでこうしてダラダラとワケのわからん駄文をツラツラと書き連ねているほど暇なんだ、ということである。