再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1144:味覚音痴

昔から味覚音痴と言われているし、その自覚もある。貧乏舌とかバカ舌と言われたこともある。

決して、新型のウイルスに感染したその後遺症で味覚が麻痺したとか障害が出ているとか、そんな話ではない。気づいたのはほぼ大人になってからだが、たぶん幼い頃からそうだったのだろう。今でも口にするものはなんでも「おいしい!」ってなるから、キライな食材や好まない料理なんてものは思い当たらない。

いや、あったな、許せない料理なら。それは「栗ご飯」だ。

想像するに、栗たちは白米と一緒に炊かれることをヨシとしていないはずだ。彼ら(彼女ら)はきっと、モンブランやマロングラッセや栗羊羹のようなスイーツになることを夢見て、期待と野望を大いに膨らませて大きくなったに違いない。決して同種の穀物類と一緒に熱々の釜に入れられることなど想像すらしていなかっただろう。そんな「栗ご飯」と化した彼ら(彼女ら)の気持ちを考えると、やるせないというかやりきれないというか、切ない気持ちになってしまうのだ...という変な妄想を繰り広げる思い込みが激しいタイプでもあるっつーことだ。

違う、そんな話をしたかったワケではない。「味覚音痴」がテーマだった。

学生時代の合宿など、極力旅費を抑えた宿泊を伴う遠征旅行をする場合、安い旅費のシワ寄せは大抵の場合は料理へ影響を及ぼす。宿の部屋が狭かったりボロかったり布団がペラペラだったりする場合もあるが、体力を使い果たして寝るだけなのでさほど部屋の良し悪しは問題にならない。だが、食事に影響が出るとなると甚大かつ深刻な問題になるケースが多い。飯の量が少ないとかオカズの品数が少ないとかならまだいいのだが、そもそも「メシが不味い」という場合がある。おそらく、料理人の人件費が削られるようなケースなのだろう。運動部系の合宿だと「とりあえず白飯さえ食べさせておけばいい」という顧問や監督の昔気質な偏った考え方が反映されがちだが、それはそれで中学生・高校生あたりを対象とした合宿なのであれば、あながち間違いではない。ただ、人は白飯だけでは生きていけない。白飯を大量に摂取するためには、その白飯に合う味の濃いオカズが必須となる。それが不味いとなると、思ったように白飯が胃に入っていかないという窮地に陥るはず...なのだが、そんな状況になった記憶がない。絶品というほどのオカズに巡り合った記憶もそれほどないのだが、たとえどんなオカズが出されようとも、白飯をモリモリ食べていたという記憶しかない。周囲の仲間たちは、疲労困憊で胃が飯を受け付けないのか、生まれつき食が細いのか、なかなか箸が進まないという状況になっているのだが、そんな中でもひとり「うまい、うまい」と、どんぶり飯を何杯も食べていた。当然ながら「お前、よくこの料理でそんなに食べられるよな...」と呆れられるのだが、そんなことを繰り返していくうちに、「あれ?ひょっとしたら味覚音痴なのか?」という自覚が芽生えることになる。

独身時代の一人暮らしでもよく自炊していたのだが、自分で料理を作って食べても「ひょっとしたら料理の才能があるのかも?」と思うこともしばしば。どんなにエキセントリックで独創的な料理が出来上がったとしても、残さず食べるわんぱくっぷりを遺憾なく発揮していた。なんせ自分で作って自分で食べるだけで他人に食べさせる機会などほぼ皆無だったから、あくまでも自己評価のみで、そうなるようにできている。だか、そこで勘違いしなくてよかった。味覚音痴かもしれないという自覚が芽生えていたからこそ、道場六三郎さんや周富徳さんに弟子入りすることなく、まともなサラリーマン人生を送れている。ホント、よかった。

別に毎日同じオカズでも文句は言わない。料理のレパートリーなどそれほど多くなくても問題ない。餃子と生姜焼きと納豆と、具材は問わない味噌汁でもあれば文句一ついわず黙々と食事することだろう。おしんこも欲しいかな。生きていくのに必要な栄養素さえ摂れていれば十分。万が一満足感が得られない場合でも、食後のデザートに活路を見出すことができる。出された料理は残さずたいらげることを信条として生きている男だ。

そんなこちらの素性を知らない料理の作り手には、最初は喜んでもらえる。なんせ、どんな料理を出しても「うまい、うまい」と褒めちぎりながら食べるから。でも、実はどんな料理が出てきたとしても同じリアクションしか出てこないから、そのうち味覚音痴だということがバレて、ガッカリされたりもする。いや、ガッカリせんでもいいだろう。だって素直に「おいしい」と思ってもらえているんだから、別にいいじゃないか。ありがたく思いたまへ。

ちなみに、実の母親も妻も料理は人並み以上に上手い方ではある。他所様からもおべっかなしに褒めてもらったことがあるのだから間違いない。ただ、その両者ともボク自身に料理の感想を求めることは少ない。あまり期待されていないというのも何だか寂しいから、余計に「うまい、うまい」と褒めちぎるのだが、それが返って不信感に繋がり逆効果になっているのかもしれない。

でもね、味覚音痴であることって別にそんなに悪いことではないと思うのよ。

何よりも当の本人にとっては悪いことなんて全然なくて、毎食毎食「うまい」と思って食事できているんだから、幸せであることこの上ない。それに、そんな料理を作った人も「不味い」って言われるよりも「うまい」と言われた方がうれしいに決まっている。別にお世辞で言っているワケではなくて、心の底から「うまい」と思っているんだから、そこに不幸なんてものは存在しない。

そうだな、たぶん人よりも味覚のストライクゾーンが広んだろうな。

だから、料理の作り手さんにも、ぜひ広い心で受け入れてほしいものである。