再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1148:すべてを疑え

別に、いけ好かないブルジョワジーに搾取されようとしているプロレタリアートを演じて注目を浴びようとしているのではない。また、「この世の中には無限の可能性があるのだから、今ある常識や普通と言われていることを疑い、汎ゆる可能性を探求することが重要だ」なんて高尚なことを言おうとしているワケでもない。つまりはマルクス主義者ではないっつーこと。そこんところ誤解なきようにおなしゃーしゃす。

「じゃあなんなんだ?」ってことになるが、別に「自分自身が一番正しい」なんていうだいそれたことを言いたいワケでもない。そもそも、自分自身が一番信じられないと、何度もここで告白しているではないか。

そんな自分も含めての「すべてを疑え」という提言である。

Paint it Blackである。全てを黒く塗りつぶして仕舞えばいい。黒が嫌なら白でも構わない。何を信じて何を信じないかはそれぞれの自由ではあるが、迂闊に何かを信じていいことがあった試しなどない。得体の知れない自分以外の他人、たとえそれが古くからの親しい友人であろうが、身内と呼ばれる親や兄弟や姉妹や子や孫であったとしても、「容易に信じていいのだろうか?」という疑問を持って生きて行かなければらないないという提言だ。人の言うことに聴く耳を持つことは、誰の言うことも聞かずにわが道をひたすら突き進むよりは、人としてあるべき姿なのかもしれない。自分自身の考えに固執し意固地になっても、決して解決することなく堂々巡りを繰り返す...なんてことは誰しもが経験したことであるだろう。確かに、誰かに決めてもらった方が断然楽だし、その結果が悪かった場合にはそれを決めた自分以外の誰かに責任をなすりつけることができる。いわゆる他力本願ってやつが、それだ。

だがしかし、本当にそれでいいのか?

今一度、よーく考えてみてほしい。

最終的に「誰かの尻の馬に乗ってみよう」と決めているのは誰だ?

もちろん、自分である。

自分自身の目で見て、耳で聞いて、肌で感じたからこそ、そう自分自身が決めているのだ。そのことを誤解してはいけない。決して自分以外の誰かのせいではないのだ。

実際に現場・現物・現実を把握して判断しているのは常に「自分」だ。

誰かの言っていた真実とも夢うつつとも判明していないことを真に受けて、その通りにしようと思って行動に移したのは「自分」だ。

他人に責任を押し付けるなど言語道断、お門違いも甚だしい。

そういう意味での「すべてを疑え」である。

「自分自身が持つ唯一無二の価値観だけで判断し、最終的な決断に対する責任は自らが負うことが決まっている」ということを言っている。自分自身の中の「常識」が他人にとっても「常識」であるとは限らない。ひょっとしたら自分が信じている「常識」は、他人から見ると単なる「非常識」なのかもしれない、そういう感覚を持って生きなければいけない。

そもそも、「常識」とか「普通」ってのはいつまで通用するというのだろうか。時代の流れやその時々の趨勢によって、「常識」や「普通」なんて、いとも簡単に変化する多分に移ろいやすいものだ。年寄りの「常識」は若者にとっての「時代遅れ」であり、若者の「普通」は年寄りにとっては「理解し難いもの」である。世代間に断絶や格差が生じるのは、至って「普通」の出来事であ...いや、こいつは失礼、表現を誤った気がする。「自然の流れ」とか「摂理」とか「世の理」とでも表現した方がよかったかもしれない。

「相手を説得して理解を得る」という労力を惜しまなければ、他人が同じ世界の住人になってくれることなどない。そういう努力もしてこない輩の妄言をそのまま信じるような脇の甘い人生を歩むことなどあってはならない。

「なんでそうなる?」

「で、その根拠は?」

「どういう展開があってのその結論なの?」

常に疑心暗鬼になって、知的好奇心を大いに発揮して、自身にとっての真実を見極めなければならない。

相手の不審を招くリスクを承知の上で、自身に降りかかる火の粉は、自身の手で振り払わなければならない。

そう、誰もあなたを助けてはくれやしないのだ。

万が一、相手に論破され説得されたとしよう。それでも最終的にどうするのかを決めるのは自分だ。結果が望むものではなかったとしても、その責任は自分自身の判断力の甘さ由縁のものであって、決してその言動を発した相手を起因としてはならない。すべての責任は自らが負うという虚勢を張ってでも、全ての場面における決断は自らが下すべきであり、その責任は最終的に全て自分に返ってくる。

それが「生きる」ということだ、と思う。