再☆煩悩の赴くままに~日々是反省~

自省を込めて貴女に贈る鎮魂歌

1172:人と人との関係性

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基本的に人間不信である。人嫌いでもある。全幅の信頼をおけるような人に出会ったことはない。憧れた人もいない。恋い焦がれた人はいる、かつて。なんのこっちゃ。

ただ、人それぞれ、どこかにいいところははあるはずだと信じている。その人を全面的に信頼することはないにしても、そのほんの一部分、「いいところ」だと思っているところは積極的に真似をするなり技を盗むなりすることにしている。

まぁ、もちろん、どこにもいいところが見つからないクズかゴミのような人間も数多いることも確か。その中の一人がこの私だったりする。

そんな風に、他人を眺めることが趣味でもある。それが故に人間観察眼には優れているという自負がある。社会で生存していくために自然と身につけた能力である。人を見る目というか見抜く洞察力には少しばかり自信があったりもするのだ。

信用できる人間と、信じてはいけない人間は、これまでも幾度となく峻別してきた。それがほぼ100%の確率でできている。仕事柄、面接官になる機会も多かったのだが、使える人物かどうかを見分ける技術は十分に備わっていると自負している。

というか、100%信用できる人間なんているはずもない。人はそれぞれ利己的な意思にて社会という荒波に立ち向かっている。他人のために何かをすることを生きがいにする聖人君子なんているはずもない。だから、その人間観察眼もかなりいい加減なものなのかもしれない。人と人とが意思を疎通させることの難しさは、誰に教わることもなく、みな等しく、これまで散々味わってきているに違いない。だから、その人をどの程度まで信頼していいのか、それを判断するためのある程度の審美眼が備わっている、そういうことにしておきたい。

だが、それは仕事をするという関係性においての判断であって、友人として仲良くなれるかどうか、という目で観ているわけではない。公私を混同しないというか、仕事上の付き合いとプライベートはきっちりと線引して分けてきた。一緒に仕事をして気の合う間柄であったとしても、休日を一緒に過ごすような深い仲にはなった試しがない。そこまで付き合いがよくない、というか面倒くさくてそこにまで労力は割けなかった。それはそれ、これはこれ、という感じである。全方位的に気の合う人間なんているはずもない。たとえ自分自身のクローンだったとしても、それぞれ経験してきたことが違うのであれば、遺伝子以上に経験値がその人の人間を形作る素材となっているに違いない。

会社の上司・同僚・部下で気心を許せる人間なんて、いるのだろうか。たとえ存在していたとしても、始終いっしょに過ごすなんてことは叶わないだろうし、それはそれで飽きてしまったり、互いに疲弊してしまう要因にもなりかねない。気心を許せるのはあくまでも仕事を一緒に遂行するという間柄においてであって、プライベートでも同様に気心を許せるかどうかはわからない。その逆も同様で、無二の親友と呼ばれる友人と同じ職場でその関係性を未来永劫維持し続けられるかというと、その未来が想像できない。何度でも言うが、「それはそれ、これはこれ」なんじゃないかと思う。

そういう意味では、「人と群れずにいること」は社会の中では必須なことだと思う。決して一人孤独に過ごすということではない。人は一人では生きられないから社会を形成し、その中の与えられた役割をそれぞれ演じて生活しているのだ。その社会における役割は場面場面で変化する。会社人としてであったり、家族の一員であったり、友人同士であったり。それぞれのTPOに応じた円滑な人間関係をいかに築き、それをいかに心地よいものにするか、ということが生きていく上で重要なことだと理解する。

「他人に大きな期待を寄せない」ことも、必要な嗜みだと思っている。他人に勝手に期待をしただけなのに、いつの間にか「裏切られた」と思わないためには、本人の意思とは別のところで、期待なんかしちゃいけないということなのだろう。自分の思い通りにならないからと癇癪を起こす子供でもないのであれば、他人が自分の思う通りに行動しないことに憤ることなどしてはいけない。他人には他人の都合があり、全て自分のために行動してくれる他人なんているはずなどないのだから。

これは、自分の子供にも言えること。親の期待を子供に寄せてしまうのは致し方のないことではあるかもしれないが、子供にも意思があり、その人生の全ての責任を親が負えないという寿命という不可避の条件が備わっているのであれば、親が子供に自分の意思を全うさせようとすること自体が尊大な行為である、ということになる。

自分のことは自分で決める。他人のことにはあまり口を出さない。こんな簡単なことをできるかできないか、それができてはじめて、対等な人間同士の付き合いができるのではないかと、常日頃から感じている、そんな今日このごろである。